2018年2月27日の体育時の事故後、1週間を待たず翌週の月曜日にはこの明石の病院に入院し、脳脊髄液減少症の初期治療となった娘。
3か月後の「淡路島への研修旅行」の頃には治っているだろうと、2週間×3回の入院に耐えていたが間に合わず、とうとうその日をこの病院のベッドで点滴に繋がれて迎えることになってしまった。
毎日学校関係者と談笑する同じ年くらいの同病患者のいる病室で、誰も来ない孤独がそれに拍車をかけたことだろう…
そして、学校の友達を乗せたバスが明石海峡大橋を渡る日を境に娘の精神状態は不安定になった。前夜、シャワー室で号泣し、病室でも布団をかぶったまま声を殺して泣いた。病院の食事も喉を通らなくなり体重も落ち、途中で退院を余儀なくされた。
病院からは、こんなに美しく明石海峡大橋が見える・・・
その後、中学2年の2019の12月まで、3回のブラッドパッチを行ったが症状は改善せず、長い間、絶望の淵を親子で彷徨った。
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そしてこの地に戻る・・・
そして、昨日(2021年3月29日)に、この「トラウマの原点」に回帰することになった。
2年3か月ぶりに、明石に続く電車の窓から海を眺めながら、あの地へ戻る不安を抑えきれないでいた。
この病院への入院治療が決まってからというもの娘は心中穏やかでなかったようだ。
「トラウマが悪化するのではないか…」
「治療がまた痛くてたまらないのではないだろうか…」
という不安感が強くなっているのは見て取れた。この治療は、針を刺す位置により、痛みがそれほどでもないこともあれば、夜中にSOSを出すほど痛いこともある。
娘は痛みにものすごく強い子なのだが、それでも耐えられなかったのはこの治療だ。
福山の病院でブラッドパッチ前に数日間この治療(硬膜外生理食塩水持続注入)をした時は大変だった・・・
そんな折、先日の26日~27日にお友達が泊りがけで遊びに来てくれて気が紛れたのは幸いだった。
しかし、出発前夜の28日夜は、ものすごく不安に襲われていたのだろう、夜寝る前に洋楽をかけながら2時間くらい歌っていた。普段こんなことはないのだが、心中を察して声をかけずにずっとしたいようにさせた。
そうして、翌日の昨日、病院近くの小さいながらも風光明媚な駅に降り立つ。
前方に淡路島、左手に明石海峡大橋の姿がぼんやりと浮かぶ
ここからバスに乗り、「○○センター前」で降りたところにあるスーパーに入り1週間の「おやつ」を買い込んだ。これから一週間は、味の薄い野菜と魚中心のあっさり病院食となるため肉類に目が釘付けになっている
入院手続きを済ませ、入院病棟の6階ナースステーションで、荷物と娘を看護師さんに託す。
以前からおられた看護師さんが多く、娘の事はまだ覚えてられたのは嬉しかった。その方たちに今の娘の精神状態をお話して、「やさし~く接してやって下さいね♡」「何か変わったことがあれば電話をくださいね!」と、お願いをしてから、
「N先生、今日はおられますか?お忙しそうでしたら退院時でもいいのですが、少しお話をさせて頂きたいのですが…」
と聞いてみた。
しばらくして、診察時間でもないのに、なんと1階の診察室でお話を聞いて下さることになった‼
実は、この日は娘を病院に送り届ける以外に、N先生がおられたら(訴訟関連の)大事な話ができたらいいのだけれど、と漠然と考えていた。
「やった~‼」
と、喜びの気持ちと、福山の先生のように瞬殺されるかも、という恐れを感じながら、診察室に呼ばれて入っていった。
そして、お話が終わり、ぴょんぴょんと軽い足取りで病院を後にした。
振り返って病院の建物をを眺めながら、
「どうか、これからトラウマと対峙することになる娘をその懐に優しく抱き、慰め癒しておくれ・・・」
と、心の中で語り掛ける。
バスに乗り、駅に着いた時に「まだ病院にいるの?」と娘からのラインが入る。
心の問題は何も助けてあげられないけど、どうかこの入院により何らかの作用が起こって良い方向に向かって欲しい…
京都に戻る電車の窓の中で明石海峡大橋が、優しい姿で見送ってくれた
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