3月13日に入院した時は、まさかひと月ほどの入院でこんなに病状が急変するとは思いもしなかった。
要支援1から要介護4~5
嚥下機能が低下し飲食は氷のみ。発話も困難になり、呼吸も苦しく酸素吸入が必須、何よりも大変なのは自分の体躯を動かせず、体位を変えるのは素人介護者には至難の業であること。眠る時間も日一日と長くなる。
これがターボ癌の恐ろしさだ。
入院からホスピスまで
2月3日の初診からそれまでは家で過ごした。ステージⅣでありながら何の症状もなかったが、第三頸椎への骨転移の痛みが強くなり、それは酷い苦しみようだった。
頸椎の骨折を防止するために放射線治療を始めたが、家では痛みのコントロールがうまくいかずにロキソニンや麻薬を乱用してしまったため急遽入院となった。
放射線が終了して予後が良ければすぐに退院のはずが、入院中に酷い吐き気に襲われ水も受け付けない日々が続いた。
3月末か4月始めには退院できると思っていたのに、これでは戻れない。吐き気(放射線?痛み止め麻薬?)は執拗に父を苛み、このまま苦しみながら終わりを迎えるのだろうかと皆で危惧していた。
そんなある日の朝、父からSOSが・・・
「もうこんなところには一日もいるのは嫌や。しんどい。すぐに迎えに来て家に連れて帰って…」
決して泣き言を言わなず、88でも自律的生活を謳歌していた九州男児が、幼子のように娘に助けを乞うたのだ。
これはただ事ではないと病院に直行し担当医師と面談。家に帰れる体調ではないが、もう一日も我慢できないという。
察するに末期癌の苦しみ痛みは一般病棟のケアではおそらく不十分だったのだろう。どこの病院でもそうだが、ナースは忙しく、頼みのナースコールを押してもなかなか来てくれないこともある。
吐き気で水を見るのも嫌なのに、キャンセルしたはずの食事が出てくる。年端も行かない若いナースが痴呆老人を相手にするような話し方をする。
そんな諸々のストレスが父を弱気にさせてしまったのかもしれない。
どうしたらいいか・・・
しばし悩んだが、父にとっての禁じ手を敢えて選ぶことにした。
それは同病院のホスピス棟への転院だ。
愛妻をホスピスで失った父にとって、以来、ホスピスは「死」を意味する忌まわしい場所である。
故に、言えば100%拒否されることはわかっていた。
なので、一つの約束をすることで、行き場のない父をホスピスに移すことにしたのだ。
それは「必ず家に連れて戻る」ということ。
ホスピスに入って死を迎える人が多いが、中には体調が少し好転した際に一時的に退院をする人もいると医師は言う。
母もそのつもりでホスピスに入ったが、49日目に亡くなった。それが父にとっては大きなトラウマとなっていたのだが、正直なところ、私も父が出てこられるかどうかわからず迷いはあった。
でも一般病棟よりも手厚いケアと辛い吐き気の緩和をしてもらえると信じて父を説得してうんと言わせた。
無料個室が空くのは待てず、15000円の有料個室が翌日空いたので急遽病棟を移動することになった。
それが4月4日だった。
担当の女性医師の頑張りもあり、10日ほどで吐き気が和らぎ、相変わらず何も食べられないものの、痛みは麻薬でコントロールできていたため、先週末に医師から退院許可の話がでた。
それから昨日18日、退院当日までの4日間、父はすごく興奮状態で、毎朝「退院は今日やったか?」と電話をしてきて、そのたびに「あと○○日だから、もうすぐだよ」と励まし続け、午後の面会にもほぼ毎日行った。
17日の月曜日の朝にも「退院今日やな?」とかかってきたので、「明日だよ、あと一日の我慢…」と話すと、父は言葉に表せないほどのひどい落胆ぶりで、私も非常に切ない思いをした。
譫妄などはなく頭もはっきりしているのに、癌による痛み以外には全く刺激のない入院そのものため、更に、あまりにも退院が待ち遠しくてたまらず、日にちを脳内変換してしまったのかもしれない。
そうしてやっと訪れた18日の朝、すでに寝たきりになっている父は、早くに目を醒まし、看護師さんを呼んで身支度を手伝ってもらい、なんとソファに腰かけていつでも帰れる体勢を取っていたらしい。
その時、私に電話がかかり、「すぐ迎えにきて、苦しい、助けて、早く帰りたい!」と切羽詰まったように訴える。まだ朝の8時で病院には入れない。「絶対に迎えに行くから!待っときや!」と宥め電話を切る。
「一体何が起こったのか?」と焦りすぐに病院に電話をすると緩和ケアに繋いでもらえ、一部始終を知る看護師さんが電話に出られた。とにかく、退院が待ちきれずに興奮状態だったようなのだ。
今のタイミングを逃したらもう家に戻れないことを本能的に察知していたのかもしれない。
とにかく、「意地でも家に帰るぞ」という父の決意が伝わってきて、私のほうも「これはどんなことがあっても絶対に連れて帰らねば」と決意を新たにした。
父の帰還
何と父は、2時間近くソファに腰かけた姿勢で迎えを待っていた・・・
介護タクシーの到着までまだ1時間半もあるため、皆で説き伏せて何とかもう一度ベッドに戻したのだが、座位から横臥位に体位を変えることは非常に困難であり、看護師さん一人では無理だったためもう一人応援に呼ばれた。
既に自分で足を上げることも、お尻を動かすこともできなくなっているのだ。
父はうとうとしている間に夢にまで見た「退院」が逃げてしまうことを恐れているようで、うとうとしかけてもすぐに目を開けて覚醒状態で持ちこたえていた。
そして、待ちに待った11時半となりお迎えの介護タクシーの大柄な運転手さんがストレッチャーを押して病室に入ってこられるのを認めると初めて父の顔が安心で緩んだ…
4人がかりでストレッチャーに移動させてもらう
酸素ボンベと痛み止め麻薬ボトルにチューブで繋がれたままの移動。
エレベーターまで、10人ほどの女性たちが見送りに来る。「まるで大奥みたいやね」という声に父が声なく笑う。
入院した3月13日はこの長い廊下を歩いて通った
病院の入り口で介護タクシーの到着を待つ。懐かしい外の風景をしみじみと見つめる
いよいよ乗車、私も同乗する。
30秒で家が見えてきた。病院の目の前なのに、実に長くて遠い距離であった…
「○○(妹)が家の外に出て待っているよ!」と言うと父は大きく頷く
運転手さんが搬入の「動線」を確認される間、自分が育てた植木たちが大きく成長しているのを愛しげに見つめていた。
よく頑張って帰って来たね、退院おめでとう!🎉💐
余生はひと月あまりと言われているけれど、今日は父にとって人生でほんのいくつかの最高に嬉しい一日だったと思っている。
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