TOEIC世代ではない”どっぷり昭和世代” の私にとって、それまでTOEICのことなど何も知らないし興味もなかった。「これから就職する大学生が受ける資格試験?」くらいの位置付けで、娘が小学6年半ばになるまでは、まさか娘がそれを受ける事になるなどとついぞ考えた事はなかった。
娘が小5の時に移り住んできた神戸市東灘区は、兵庫県きっての文教地区らしい。そんなことは全く知らずに移り住んだのだが、小学生から中学受験のため、或いは、はるか先の公立トップ高校合格を目指し、早い時期から塾通いをするのが当たり前のような地域である。
特に、2号線あたりから山手は、民度が高いというか、歩いている小学生の顔つきさえ違うような気がするし、コンビニの前でヤンキー座りをしてたむろする、元気有り余る青少年達の姿をみかけることもない。明らかに今までに住んできた、国内外の様々な場所の”程度の差こそあれ存在する猥雑さ”が皆無である地域であることは、この地に来て肌身で感じた点である。
この”小学生の塾通いが多数派”の地域で、子供の教育には無関心なわけではない私が娘を塾に行かせなかったのには訳がある。
娘には1人兄がいる。その兄が、幼少から10年間近くずっと原因不明の身体の不調に苦しめられ、神戸に来た年の夏頃にはもう寝たきりの事実状の「廃人」になっていた。こうなるまで、この息子を200軒を超える西洋医学、東洋医学、民間治療、お祓い、霊能、神頼み等に藁をもすがる思い、連れてゆく一方で、ネットや書籍で原因究明に明け暮れるというのが、私のこの10年のライフワークになってしまっていた。
本当に長いトンネルの中で光が見えず、或る検査で病名が判明する直前は、悩みに悩んで息子との心中までも覚悟していたほどの時期もあった。娘には悪いが「健康な子供」のことなど構っている余裕はなかったというのが正直なところだ。
また二つ目の理由として、この兄が早くから知的好奇心と勉強における非凡な所を見せていたため、知的に凡庸でお勉強に関心のなさそうい見えた娘の教育には息子へのようなパッションを持てなかったということもある。
例えば、息子がようやく立ち歩きができるようになった1歳前後、まだ言葉もあまり出ていない時期には既に、いとこのお姉ちゃんのお古の知育セットの絵本をヨチヨチと取りに行って私に差し出し
「ちいく!ちいく!」と、舌っ足らずの可愛い声で叫びながら、知育遊びをさせてくれるようにせがむのだ。
コイルで閉じてある本に書いてあるお花や動物の絵合わせをしたり、こちらが言う「物」の名前を指さしたり、言葉が出るようになれば、こちらが動物の絵を指さし、「これ何?」と聞くと「パンラ!」「ろうしゃん!」とか実に嬉々として答えるのだ。母子で至福の時間であった。数々の知育カードをフラッシュしてあげたりするのも大好きなようでずっと興味深そうに見つめ全て記憶した。
そして2歳では、安野光雅さんの美しい平仮名の本をいつもじっと見つめていて知らぬ間に1人で覚えてしまった。年中さん頃には愛読書は子供用のたくさんの子供百科事典や、特に「レインボー漢字辞典」をボロボロになるまで読み続けたり、公文を始めて2年目の小1の1年間で公文の国語算数の中学過程を全て終了し、小学2年で高校数学をこなし、小3終わりに特待生として入った全国大手のN塾では、数ケ月で塾内模試8000人余りの中で1位を獲得し、その賞品をお手紙を添えて私にプレゼントしてくれるという、実に親にいい夢を見させてくれる子であったのだ。(可哀そうに、この後病気が悪化し地獄を見るのであるが・・・)
一方、娘は、息子があれだけ知育にはまったので私も張り切って、「子供は皆学ぶ欲求を持っている!この子はもう少し早い時期にから!」とばかりに、まだ禿頭でハイハイしている時期に同じように絵カードや数字カードを見せようとするのだが、赤ん坊のくせに実に嫌そうな顔をして、プイと横を向き全速力でハイハイして逃げていくという具合であった。息子同様1歳前から地元の公立保育所に入れていたので、あまりじっくり向き合う時間もなく、また、夜泣きを一度もせず「子育て楽勝モード」だった息子とは違い、この娘には鬼のような毎晩の猛烈な夜泣きがあったので、こちらも日中のエネルギーを奪われていた。
知的好奇心においてあきらかに兄と差があり、計算カードにも、ひらがなにも全く興味はなかった娘。
3歳ぐらいで公文をさせようと思ったが、しょっぱなの「お絵かきズンズン」のところで躓いてしまった。 鉛筆を持ってくれず、持っても勝手に好きなところに線を引きまくるのでまったく前に進まないのだ。月謝を払うのがアホらしくなって2か月くらいでやめてしまった。この時期を通して、娘は知育に全く興味を示さず、こちらも教育熱を奪われてしまっていたのだ・・・
というような経緯があったため、以来、基本、娘には好きなことに時間を使わせていた。勉強はしていなかったが英語の本を読む習慣がついていたので「まぁいいか」という気持ちであった。
兄が健康なら、或いは、生まれた順番が逆だったならば、もう少し頑張って勉強に気が向くようにいろいろ工夫をしてやったりしたかもしれないが、小学校に入る頃には、「勉強できなくても英語ができるからこの子はもう生きていくのにはおそらく困らないだろう」と高をくくり、一方、このままでは、まともに生きていくことが危ぶまれるくらい徐々に体調が悪くなる兄に構いっきりだったのだ。”賢こすぎる病弱の兄”にお母さんを奪われてしまっていた状態とも言えるのだが、娘は親に干渉されない自分の時間を持てるという自由と特権が存分に与えられ、それが結果的に、爆発的な英語力に繋がることになった。
思い出すのは、お母さん子であった息子が私の耳フェチで、耳たぶを触らないと眠れなかったため、私と息子が床の布団で仲良くお話しながら眠りにつくのを、娘が離れたベッドの上からスヌーピーのライナスのようにお気に入りの毛布をいじりながら不思議そうに見つめていた。と、まぁ、こういった関係性であった。
そうして、神戸の小学校で小6になった時には、依然として塾にも行っておらず学校の勉強だけだったため、普通の中学受験は当然無理で、「流石にこのまま無勉強ではまずいから、中学2年くらいからばっちり塾に行って勉強モードになればいいか・・」と、出身地京都の標準的教育モードで考えていた。
地頭の良い子なら、それで十分公立トップ校に合格するし、届かなければそれだけの頭しかないという事なのでこれでいいと考えていた。そして今後、中2になるまでは大好きなペーパーバックを読む時間を確保して、日課のバイオリンもちょこっと練習して、後は、習い始めた卓球に週何回も通ってどんどん上達してほしいと願っていたのだ。
そんな6年生のある日、凄い学校をみつけてしまった!
その学校は、芦屋市にある兵庫県立の公立中学で、入学試験には学力試験が課されず、面接と作文(いずれも日本語)だけというところで、受験のための勉強をしていない娘にはうってつけのところであった。何しろ、「インターナショナル中学」なのだから!裕福でない我々庶民でも行ける公立インターナショナルスクールだ!
聞くところによると、この学校の英語の授業はレベル別に何段階かに分かれ、上は帰国子女レベルに合わせて1年時から英語の原書を読んでいくらしい。1人で孤独にペーパーバックばかり読んでいた娘にはまさにうってつけだ!友人や先生と英語読書体験を共にし、ディスカッションできるなんて夢のようだ!ネイティブの先生の生の英語に毎日触れられる初めての機会を与えてもらえる。(それまでは、子供相手のネイティブの個人レッスンに1時間あたり最低5000円以上払うなんて馬鹿らしいし、経済的余裕もないし全く縁がなかったのだ)おまけに、なんという幸運、学力試験がないのだ!!!
「まるで娘のためにあるような学校ではないか!」
はるばる神戸にやって来たのもこの学校に入るためだとさえ思った。何しろ公立で高いレベルの英語授業を提供してくれる学校なんて関西にはどこにもなかったのだから。これは、運命の女神に導かれているのに違いない!神様ありがとう!!!
迷う余地はなかった。6年生の5月ごろには、娘もこの学校に行ってみたいという気持ちをはっきりと持つようになった。
その名は、「兵庫県立芦屋国際中等学校」
芦屋市の海辺の方にある、帰国子女や外国人家庭の子も多く通う中高一貫校である。
今、この学校の名前を書いただけで手が震える。娘と私のトラウマとなった辛い辛い記憶を掘り起こす作業の始まりである。