Friendshipは船と港 ~藤田くらら 小6でTOEIC980点までの軌跡~

小学6年でTOEIC980点を取った女の子のお話。中学1年での、学校体育時の事故が原因で「脳脊髄液減少症」を発症。寝たきりから「復活」の兆しが…

「恣意的な平等性」の名の下に個性が圧殺された英語の時間 ~ TOEIC980点の子供が公立中学の英語の授業を受けるという事⑥

前回は、定期試験の娘の「正しい」解答に対し、何の「疑問」も「知的好奇心」も抱くこともなくをつけたた先生の姿勢から、何か悪い予感がしたことをお話しました。

 

英語授業の様子

 

では、平素の英語の授業はどのようなものだったでしょうか? 

まずは他の教科の場合のことを書いたほうが、その対比でわかりやすいと思います。

 

娘は目が悪いことと、授業に集中しやすいことで、席替えでは皆が嫌がる一番前の席をいつも希望していました。

 

そうして、得意な文系の授業の国語や社会では一番前でガンガン手を上げ、あまり好きではない理科や数学でも、それなりに手を上げて、「授業を真面目に取り組んで頑張る(一方とても謙虚な)生徒」として捉えられていました。

 

娘が出演したテレビ放送も職員室で見てられたりして、入学時には職員はほぼ娘のことを知っており、「どんなギラギラした、やり手で、目から鼻に抜けるような賢く鋭くキレッキレの女の子が来るのだろうか?」と思われていたようです。

 

でも、実際の、のんびりとした性格でその場の空気に馴染んでしまう(存在感がない…)本人を見て、「思っていたのとは違う、おっとりした子供」だとわかり、そこから「謙虚な子」というのが娘の代名詞のようになったようで、私が話した教科の先生全てにそう言われていたことを思い出します。

 

普段は目立たないけれど、授業には頑張って参加する生徒の一人として認知されていました。

 

英語以外の教科では、頑張って手を挙げた分だけ当てて貰えるので、モチベーションもアップ⤴し、授業は全て楽しいものと感じていたようです。特に、娘のクラスは積極的に手を挙げる生徒が多いらしく、先生にとってもとてもやりやすいクラスでありました。

 

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英語の時間は修行の時間

しかし、英語は違いました。他の教科の先生は、手を挙げる子には平等に当ててくれましたが、英語の時間だけは娘には最後まで当ててもらえません。

 

そして、娘にとって悲劇なのは、全ての先生の質問の答えはわかっているはずなので、全ての質問に対してずっと手を挙げていないと、「わかっているのにさぼっている」「わかっているのに馬鹿にして答えない」と取られ、内申を下げる理由とされ得るため、滅多に当ててもらえないのに一番前でずっと手を挙げていなければならなかった事です。さぞ虚しいことだろうだろうと、我が子ながら本当に気の毒でした。

 

他の生徒が2回、3回と当たるときも、娘の順番が回ってくることは少なく、これに関しては帰宅後によく愚痴をこぼしていました。

 

「しんどい時でも手がだるくなるまで挙げていてもなかなか当てて貰えない。私以外に一人でも手を挙げていたら、ほぼ私には当ててくれない」

 

この先生は、できる限り娘が目立つことがないようにあらゆる策略を練ってられたのでしょうか? 娘が発言する機会は極少に抑えられ、これで先生は「平等性」を実現できていると思われていたのかもしれません。

 

そこまで「平等性」を大事にされるのならば、他の教科のように手を挙げていたら平等に当ててくれればよかったのではありませんか?この地域では英語の早期教育を受けている生徒が多く、中学1年のレベルの質問など娘でなくても皆わかっており、よく理解して手を挙げるのは娘だけではありませんでした。その子たちには普通に当てて何故娘だけは特別扱いだったのでしょうか?

 

温厚な娘本人がそう感じているのだから、まさにそういう事が行われていたということです。

 

 

口に粘着テープを貼るが如くの思い

先生は、よく授業では間違われていました。話す英語もそうですが、特に黒板に書く時です。それは、英語を母語をしていない人間なのだから、多かれ少なかれそういうことはあるのは理解できます。

 

娘には当然それがわかりましたが、それを一々言い立てるような空気を読めない人間ではないのでずっと黙っていました。

 

でも、ある時、派手にスペルをを間違われてそれを生徒たちが書き写していたのを見た娘は「これを、英語を習ったばかりの友達が間違えて覚えたら大変だ」と危機感を覚え、(よせばいいのに)授業が終わってから、教室の外の他の生徒がいないところで、先生に小声でそれを告げたのです。先生はその場では、「あぁ、そうだった?」みたいな対応でしたが、娘の期待とは違って、それを次の授業で訂正されることはなかったということです。

 

それにより娘は、「先生が間違えて教えたことを生徒が間違えて覚えることがあっても、自分はそれを見て見ぬふりをしなければならない」と悟ったようです。

 

でも、思い出してみれば、私が中、高で、どの教科であれ、先生が間違っていたら、誰かが、

「せんせー、それ間違ってるで~」 

って言って、先生も、

「あ、そうやな、うっかりしてた、悪い悪い・・・」

というような気軽な雰囲気のうちに行われるようなことではないでしょうか?

 

でも、この先生の英語の時間にはそういうことは許されない雰囲気があったのでしょう。そして、他の生徒ならともかく、自分がそれをすることは、他ならぬ、「先生に恥をかかせてしまうことになるのだ」、と子供ながらに娘は感じていたのでしょう。

 

このように、定期テストの採点姿勢や、授業中に手を挙げても明らかに他の生徒とは差をつけて「空気」のように扱われること、その他にも自分がこの時間に英語を発話する機会は極力奪われた上に、一度だけの親切心で勇気を出して、物陰で間違いを指摘しても対応してもらえないことから、娘にとって英語の時間はとても心理的にしんどいものになっており、娘にとってこの時間はまさに、忍耐の修行の時間となっていたのは否定のしようがないのでした。

 

先生により対応は分かれるようです

 

そんな娘の報告を聞いていましたが、「公立中に来たからには仕方がないね」と諦めるように言うしかありません。もしも、2年でもう一人の先生になれば、もう少し対応が変わっていた可能性もあります。少なくともこちらの方は娘がどのようにして英語力をつけたか興味を持ってくださるなど、接し方が明らかに違いましたから…

 

しかしながら、このことを英語教室をしている知人に話してみたら、こう言われました。

「くららちゃんみたいな思いをする事は帰国生でもあるみたいよ。学校の先生には2通りあって、

①ネイティブスピーカーがせっかく教室にいるのだから、なるべく『活用』して、クラスの生徒に生の英語に触れる機会を作ろうとする先生

 

②完全に発言を封じ込めて空気のように扱い、自分の確立したルーディーンや支配する空間に入り込ませないようにするタイプ

 

私なら、クララちゃんみたいな生徒がいれば、テキストを読んで貰ったり、ALTと会話をするのを聞かせたりして、単調になりがちな授業に刺激を与えてもらうんだけどねぇ・・・」

ということでした。

 

娘の先生は、完全に②のタイプでした。

 

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ある高校での中国語ネイティブの扱い方

 

それを聞いて思い出したのが、知り合いから聞いた高校の漢文の授業の話です。

その頃は、中国残留孤児の2世、3世の方が日本に移住されることの多い時期だったのですが、京都のその高校は特に日本語の不自由な3世の子供を受け入れていたそうです。

 

そして、漢文の時間に先生が、その中国語のネイティブの生徒に、中国語で漢詩を読んでもらったそうです。「レ点や送り仮名を使って日本語で読むのとは全く違った中国の風景が、広がるような気がした思い出深い時間だった」と、知人は感慨深そうに回想していました。

 

一方の娘の英語の時間では、たまに最後に当てて貰った時に、単語を一つ二つ答えるだけが関の山で、学校事故に遭う最後まで「この先生の英語の時間に娘が英語を読んだり話すのを聞いた生徒は誰もいない」という、この先生が思う所の「平等性」の意図が完遂され、「娘の特性」は完全に圧殺されていたかの如くの空間が出現していたのです。

 

ここまで徹底して「個性の圧殺」ができたのは見事を通り越して「天晴れ」としか言いようがありません。

 

数学では、得意な生徒が自分の考えた解法を黒板に披露して先生を感嘆させ皆の喝さいを浴び、体育では足の速い生徒が活躍の場を多くもらえたりして、得意なことを抑え込まれることなくその力を発揮する場がありました。

 

他の生徒さんにとっては良い先生であったかもしれませんが、娘にとっては「しんどい」先生でした。でも、悲壮感も出さずに黙々と修行のように耐えていたのです。

 

私も、「これはその先生の授業に対する考え方」だから異論を唱える気もおこらず、このままやり過ごそうとしていたところ、しばらくして、「酷い出来事」が起こったのです。

 

 

  

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