前々回では、純ジャパの娘が学校(インター)のネイティブクラスで帰国子女の中にあっても、「語彙の保持数」ではどうやら自信を持てる状態であるらしいことを書いてみました。
今回は、英語を学ばれる人にとっては「読書力」と双璧をなして重要な「ディスカッション能力」について今日は考えてみたいと思います。
活発な「ディスカッション」を可能にする環境
娘は帰宅後、学校での様子を聞き出すための私の巧妙な誘いに知らずに乗ってしまい、無邪気に学校の様子を話してくれるのですが、その中から見えてくる学校での姿は基本明るいものであり、ネイティブに囲まれて気緊張したり委縮したりするものではありません。
むしろ、初めて受ける「英語の正規教育の場」で多くのネイティブを差し置いて「ディスカッションに積極的に参加している生徒のうちの一人」となっており、本物のネイティブ英語に囲まれていても何の臆することもなく話しているのは正直不思議であり凄いなぁと感じます。
これは少し考えれば当然のことなのですが、日本の学校でも、よく口が回り休み時間に一番おしゃべりの生徒が授業中に積極的に発言をする人間だとは限りませんから、「ネイティブ=発言多し」というのは違いますね。「敢えて、発言しない」という態度を取っている生徒さんもいるでしょうから。
思うに、授業や、ホームルームなどでしっかり発言できる生徒は、まずはその場に参加することへの強いモチベーションを持ち、色んな分野のことについて何らかの自分の意見を持てています。そして、人前で自分の考えを述べることにも抵抗を持ちません。
ネイティブクラスは多くが帰国子女や外国人で占められていますが、彼らは、日本では時には嫌がられる場合もある、「色んな考えの人間がいる中で自分の意見を述べる」というポジティブな空気を成長期に経験して日本に帰ってきています。
そこでは、少々極端な意見であっても、不完全な意見でも、とにかく「発言すること」に対する抵抗感や罪悪感とうものがない空気の中での授業となっていると思うのです。
なので、最近まで英語圏の現地校で教育を受けて帰国ほやほやの生徒の中には、素晴らしく積極的にディスカッションに加わる子もいて授業を活性化してくれるようです。
そして、・・・娘もそのような生徒と同レベルに、先生の投げかける時にはハードな問題提起に対して必死に考えて自分の意見として主張したり、反論したりしている姿が徐々にわかってきました。
授業では、「妊娠中絶」や「安楽死」といった深刻な問題について、
pro and con(賛成と反対)
の立場を決めて議論をするそうですが、ここで娘にとってストレスなことが秘密ですが一つあるようなのです。
この授業は「宗教哲学」であり、先生は敬虔なクリスチャンであるが故かどうかは存じませんが、絶対中絶反対の立場を取られているのが丸わかりで、それに対して反論を試みても少々シニカルなコメントで返されたりするようで、ちょっとイライラして頭痛が酷くなるのだそうです。
これは答えが出ないテーマであり、アメリカの大統領選の重要な政策の争点ともなるデリケートな問題なので、つまりは、「永遠に合意には至ることはない社会問題」を論じ合っているのですから、それは疲れると思います…
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英語ネイティブに対して卑屈になる必要はない
それは置いておきまして・・・
勿論、ネイティブの先生や生徒からしたら娘の英語は100%完璧ではないでしょうが、英語の正規な教育を一度も受けたことのない子供が、このように10年近く海外で育った子供に引けを取らずに討論を頑張っている姿はどう映っているのか聞いてみたいきもしますね。(まさかホントには聞きませんよ)
一つ思い出すのが、私が大学院に在籍していた時、そこは中国から超優秀な学生さんが来ていましたが、その中で一人香港から来た女の子は脅威に「クレイジー」でした。
日本に来て2年ほどで、大学院のゼミで、日本語や英語の文献を読みこなし、素晴らしい発表をし、本当にその場の殆どの日本語のネイティブである日本人学生よりもはるかにレベルの高い話を素晴らしい理論構成で「日本語」で話していました。
私ら日本語ネイティブの顔色はありませんでした。こんな感じ☞( ゚Д゚)…(+_+)…(*_*;…
「世界は広し。こんな宇宙人のような人もいるのだなぁ」と呆れるしかありません。
何が言いたいかと言いますと、「しっかりと考える頭」を持っていれば、外国人でもこのような「最高学府」と言われる場所であっても、ネイティブを圧倒的に凌駕するほどのパフォーマンスができるのだ、ということです。
なので、結論としては、
帰国子女やネイティブスピーカーに対して、桁外れに大きすぎる憧れを感じたり反対に劣等感で卑屈になってしまったりする必要はそれほどないのです。
娘は、この「香港の大天才のお嬢さん」とは、頭脳のレベルは大きく違いますが、いつも自分なりに色々考えて、即興的に考えを述べる能力は高いのだと、少しずつわかってきました。
だから、スカイプの英語レッスンでも、画面を消していれば、小学校就学前時には「中学生くらいなの?」とよく聞かれていて、そして、画面をオンにするとちびっこがそこにいたので先生方は皆びっくりされていたのを思い出します。
そして、中1になる前後の計4~5回のテレビ撮影では、一度の撮り直しもなくインタビューにも堂々と答えていた姿は、私の頭の中に描いていたそれまでの「空気のようで頼りない娘」ではないことに非常に驚いたのです。
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「日本の空気」が支配すると委縮する
それとは反対に・・・
おかしな話ですが、ネイティブクラスに移る前の日本人クラスで授業を受けていた時、娘は「発言するのはすごく緊張した。脚が震え事もあった」そうです。
なぜでしょうか?
おそらく周りがあまり発言しなかったからでしょう。それも当然と言えば当然の事で、いくらインターに長年在籍していると言えど、(長期の休暇中に短期留学などはしていたとしても)日本の言語環境で育ってきた生徒で、教室の中で、皆の前で説得力のある英語を組み立て話せる子は少ないのではないでしょうか?
思うに、娘はその中で「悪目立ち」をすることを直感的に恐れたのかもしれません。
あと、一般的に、この年頃だと授業中に発言するのが「ダサい」とか「目立ちたがり」とか思われ、それを今流だと裏lineで何と書かれるかわからなかったりする怖さみたいな空気がどこにでもありますね。
私はSNSがまだ存在しない時代、ヤンキーが一杯いた荒れる中学にいた当時でさえ、そういう空気をひしひしと感じていたので、その点はすごく理解できるのです。(Lineなど未来都市の発明並みに想像すらできない時代でしたが)
娘がどうだったかは知りませんが、日本で育った人間の中にあっては、「目立つこと」や「出すぎること」がいつも歓迎されるわけではないということを、中学1年時の担任の先生から身を持って教えてもらったため、その場、その場で空気を読む習慣が嫌でも身についてしまっていてもおかしくはありません。
でもそれは、日本社会に順応して生きていくためには必要な能力でもあり、帰国生たちも初めはその習慣に違和感を感じても、この社会で必要な身の処し方を徐々に学んでいくことになるため、娘も、善悪を超えた慣習・文化としてとらえていいるに違いないことでしょう。
その意味では、今娘が多くの時間を過ごすこの「ネイティブクラスの教室」というのは、日本にあって、英語での活発なディスカッションを生み出す出す特殊な場であると考えてもよさそうです。
数奇な運命に翻弄されて漂い流れ着いたこの学校
その中にあって、尚、流されながらもその水の中から手を精一杯伸ばし自力で這い上がった岸辺には、英語の楽園 のようなこのクラスが娘を待っていたのです
次回は、娘のディスカッション能力をつけることになった「多読」と「スカイプレッスン」について考えてみます。
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