Friendshipは船と港 ~藤田くらら 小6でTOEIC980点までの軌跡~

小学6年でTOEIC980点を取った女の子のお話。中学1年での、学校体育時の事故が原因で「脳脊髄液減少症」を発症。寝たきりから「復活」の兆しが…

「公立上位校」に別れを告げた、悲しみと失意の中2暗黒時代 ~ 学校が 決まるまでの葛藤と諦念の忘備録 ⑤

 

 (流れ的には、この記事の続きです)

 

中2は恐らく「人生最大の難所」であったに違いない

中2の5月は、娘にとって大きな意義のある月でした。ここで学校初めての大きな旅行が用意されていたのです。

事故翌日からの強烈な頭痛が発生してから3か月。発見が早かったため、この時までには治っているだろうという希望的観測の下、娘は入院を繰り返し初期治療を続けていました。 

そして、5月のその日は娘が何とか保ってきた精神が打ち砕かれた日でありました。

 

 下の二つの記事は、このブログを始めてから何としてでも続けてゆかねばならないという思いを持ち続ける理由、ブログのレゾンデートル(存在意義)であるため、何度でも引用いたします。

 

 

あの頃の、本人も見ている方も身を切られるような辛さが蘇ります。

 

この時に堰を切ってあふれ出た、悲しみと無念の思いはその後の娘の病状の悪化に拍車をかけたことは、現在娘が希望という光を見て「動けている」ことを思うと確実だと断定できます。精神と肉体は相互に大きな影響を及ぼしあっているものなのですから… 

 

この時点で、既に事件は風化して(学校が隠蔽に走ったため当然のこと)、私たちは世界から取り残され、娘はたった一人きりで自分が突き落とされた黒い泥沼の中でもがき苦しみ、ついには昏睡のような睡眠の世界に入ることにより初めて自らを苛む記憶と意識から解放さるに至りました。

それを毎日見せられた私の方がついに精神のバランスを崩し、心療内科の薬を沢山のみながら決死の覚悟で娘の人権回復へ必死で奔走することになりました。

 

もうあれから2年以上になるのですね…

娘の中2時代はこのように、暗闇の状態のままで終わりを迎えました。

 

魔の5月を終えたあたりで考えていたこと

テーマの「高校進学」についてこの5月辺りでは、「もしも中2の夏休みまでに全快すれば、夏休みを返上して遅れた分を取り戻して、公立上位校の神戸の長田、京都の堀川といったところにまだ望みをつなごう…」といった気持ちでした。

 

でも、実際のところ、この時点で塾に入っても進度的にについて行けなかった事と思います。おそらく大半のところでは2年生の後半の学習をしているか、早いところでは3年生の学習にも入る頃となるので、もし娘の遅れを取り戻そうとするならば、個別塾に行くか家庭教師ということになりますが、全教科それでは家計が持ちません。なのでやはり私が大方の負担を背負い娘と2人三脚で頑張ることになったと思います。

 

中學校はと言えば、娘が学校に行けなくなったころから何度か「先生方のお時間に余裕があるときに1時間でもよいので勉強…とは言わず顔を見に来るだけでも来てやってください」と遠慮がちにある先生にお願いしていたのですが、娘の意識がはっきりしている間も、勉強のサポートは何もしてもらえないどころか顔を見に来てくれる先生もいなくなり、完全に切り捨てられているのだと嫌でもわかる状態でした。

 

夏頃に、進路に関して一つ学校に打診したことがあります。

「このまま病気が長引くようであれば、公立受験をするなら葺合高校の国際科に落ち着くかもしれないのですが、どうでしょう…」と聞いたところ、厳しい現実をつきつけられる返答が返ってきました。

 

「いや~、葺合の国際科は、健康でないとこちらも推薦できませんからねぇ…、良くなられた大丈夫だと思いますが…」 

 

「誰のせいで、こんな病気になったんだ!」と言いたい気持ちを抑えて、複雑な思いで目を伏せながらそれを聞いていました。

 

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そして「諦めの時」が始まった

 そうして、中2の夏休みとなりましたが、娘の頭痛や倦怠感、眠気は消えませんでした。そして秋が始まる頃には、娘の過眠の症状は顕著になってきました。

 

6月にした初めてのブラッドパッチも全く効果がなかったことで、きっと、全ての望みが断たれたようになり精神的にも5月のあの時より更にがっくりきたことも、今考えると悪化の一つの原因だと思います…

日を追うごとに睡眠は長く深くなり、秋が深まる頃には昏睡のような睡眠となり、ついに一日に数時間しか目を開けていられない日もあり、最低18時間以上の睡眠が必要な状態に陥ってしまいました。

 

この時点で既に、1年の時に娘が憧れていた神戸の長田高校、そして私が胸中に抱いていた、京都の堀川高校といった、公立上位進学校を目指す希望は完全に打ち砕かれていました…

 

さようなら長田高校…

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さようなら、堀川高校…

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この時点での通知簿の成績は「オール1」でありました。

公立上位校はおろか、中堅校への受験も、学校に行けない情況では受験のために必要とされる成績は出せないため不可能となってしまったのです。

(学校が何の情報も提示してくれなかったため、この時点では「出せない」と思っていました)

 

こうして、”潜在能力不詳” の娘が、勉強に真剣に取り組むことにより、どこまで伸びるか?、ということを客観的に捉えるための良い機会である高校受験には、正攻法の形で参戦することは不可能となったのです。

 

そして、2年に及ぶ学習の遅れと今の健康状態では、大学受験に関しても同様のこととなりそうです。 

これまで、病気によるたくさんの諦めの中の大きな部分として、「学校選びと進学の問題」を切ない思いと共に何度も経験してきました。

 

大学に進む希望を既に持つ娘が、2年半後に涙を見せることがあるとしたら、それが喜びの涙であることを心から願わずにはおれません…

 

(続く)

 

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