Friendshipは船と港 ~藤田くらら 小6でTOEIC980点までの軌跡~

小学6年でTOEIC980点を取った女の子のお話。中学1年での、学校体育時の事故が原因で「脳脊髄液減少症」を発症。現在はほぼ寝たきりとなり1年が経過しました。

学校廊下のガラス窓を木製椅子で叩き壊した私(その2)「私=娘」即ち「梵我一如」

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前回の、私にとっての衝撃的な夢は、昨日5月11日、昼寝中に実際に見たものである。無意識からの何か大事なメッセ―ジが含まれているかもしれないと思い、宅急便にサインをして荷物を受け取った後、すぐにパソコンに打ち込んだ。

 

そして、夜になっても興奮冷めやらぬ私は、この体験を読者の方々と共有したく思い、ブログで発信した。

 

 

それを見たまじめな息子は、「なんのことか意味がわからない」「こんなん書いたら、妹が暴力的な人間だと誤解されるのではないか?」という、いかにも最もな感想と懸念をラインで送ってきた。

 

でも、もう公表してしまったものは仕方がない。今回は、息子の心配をよそに、少し脱線して形而上学的(?)な、思いつきを書いてみようと思う。

興味のある方は先を読んで頂きたい。この手のものが嫌いなかたはスルーをどうぞ。

 

 

まずは、前回の記事をご一読いただきたい。

 

 

ここで夢分析をしようと思わない。因みに、何かを壊したい衝動は、強いわだかまりや不平が心の中にあることを暗示し、ガラスを割ってスッキリする夢は、「心のもやもやが近いうちに解消される暗示」だとか書いてある。

おまけに運気も上昇してゆくそうだ。それだと心配することはない。

しかし、そんな陳腐な夢解釈で、割り切れるほど、あの夢は単純なものではなかったような気がするのだ。

 

まず、夢の中の「私」という意識、あるいは視点は、この夢を通して私であって私でないものであった。学校へ入る直後は自分だと思っていたが、地階へ続く廊下から、下の正面の教室を掃除する男子生徒達を見た瞬間、「娘」へと変容するしかし私はその変容にはその時は気づいていない。

 

そして、場面が変わった後、私はおそらく「娘の意識」でガラスを割るという衝動に駆られた。でもまだそれが娘の意識だとは気づかない。「自分」だと思っている。

担任の女性教師のことばである、「昨日までのあなたとは違うことを何故したの?」という第三者の言葉により、初めて私は娘であることに気づいた。

 

その後の体育館での、エキゾチックな女子生徒に対しても、私は中学生である娘の視点を持ってその子を観察し、先生の、あなたを通してこの転校生の子をこの学校に統合する運びとなりました」という言葉に対しても、娘の自我によって反応していた・・・

ような気がするのだ。しかし、その間ずっと、自我の主体としての認識=私、であったのだ。

 

私であって私でない自我しかし、その変容した自我は、娘の自我として客観的に「私」が認識できるものではなく、私はその時私という自我を生きると同時に娘の自我も生きていたのだ。

 

言い換えると、私の自我意識と娘の自我意識が融合してしまった、或いは、私の自我意識が娘の自我に憑依してしまったような具合、と言ったらわかるだろうか?・・・

 

夢の全体を通して、私の自我の主体が私」であるという認識は変化しないままに、私は娘の意識をもって行動したという、今までに経験のない不思議な自我意識のありかただった。

 

 

気になって仕方がないので、ネットを検索したところ、わりとすぐに「あぁ、これに近い感じだった!」と思えるものを見つけた。

 

 

それは、オーストラリア出身の理論物理学者エルヴィン・シュレディンガーが支持した古代インドの梵我一如の考えである。

 

通常の理性では信じがたい事かもしれないが、君ーそして意識をもつ他のすべての存在ーは、万有のなかの万有だということなのである。

君が日々営んでいる君のその生命は、世界の現象のたんなる1部分ではなく、ある確かな意味合いを持って、現象全体をなすものだということもできる。・・・

周知のように[古代インドの]婆羅門たちはこれを、タト・トワム・アスィ(Tat twam asi=其は汝なり)という、神聖にして神秘的であり、しかも単純かつ明快な、かの金言として表現した。

―それはまた、「われは当方にあり、西方にあり、地上にあり、天井にあい、われは全世界なり」という言葉としても表現された。

     ―エルヴィン・シュレディンガー「道を求めて」中村量空[訳]

wikipedia「なぜ私は私なのか」

 

梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。 古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。

梵我一如 - Wikipedia


 

 

つまり、全ての意識はひとつであるということであり、個人意識とそれを取り巻く万有の意識との境界はなく同じ一つの物である、というような意味合いだと思うのだが、これがまさに私が夢の中で体験した、私と娘の意識の融合(フュージョン)の経験を説明するのに近いものだと、今のところは感じるのだ。

 

私の意識(小宇宙)は、梵(大宇宙)の一部であり、かつ同一のものである。娘の意識は梵(大宇宙)の一部であり、それはすなわち私(小宇宙)と重なる。

私=全世界なのである。

 

みたいな解釈を、昨日の夢の中の現象に与える(こじつける?)ことで納得することにした。哲学をかじられている方から見れば笑止千万であろうが、私が気に入っているのでそれで良いのである。

 

 

昨日私が感じた、「私であって私でない自分」は、「なぜ私は私のか?(Why am I me?)」や、「なぜ私は他の誰かではなくこの人物なのか?(Why am I me, rather than someone else?)」という哲学上の「<私>の問題」と表記される大きな問題につながり、それはなんと、

「意識の超難問」(The Hard Problem of Consciousness)」 と言われることもあるそうだ!

 

私は、夢の中で哲学的体験をしていたということなのか・・・道理でわけがわからないわけだ。恐らく、これ以上の深入りはやめておくのが身のの爲である。

 

ということで、次回は、形而下に降りて、現実世界で昨日の夢が娘の現状の何を顕していたのかを地上的に考えてみる。