昨日の記事の続きです。
この問題は学校保健やスポーツ振興会の管轄から外れるので、ここからは、教育委員会の上部の方と話をする必要が生じます。
それで、こちらが一度、電話をしたところ、男性の結構お偉い方が出られたのですが、何だか今までと全く違った雰囲気の対応でした。事務的な厳しめの口調で、「学校事故被害者」に対する、謝罪や思いやりのある態度ではありません。保健制度の関係で治療費に関してはこれ以上は無理だというようなことを再認識したにすぎませんでした。
これではだめだと思い、こちらも今度は文科省に電話をして、今回の件が「学校事故」に問題なく該当し、学校側がそれに関して責任を持ってきちんと対処してゆくことが必要であることを確認し、当然の如く「同意」を得ることができました。
そうして、再度、神戸市教育委員化に電話をして話をしました。
「文科省から、歴然とした学校事故であることの認めてもらっていること」
「学校から事故の報告がきちんとあったかの確認」
「学校事故被害者に対するサポートをこれからがきちんとするように学校に伝えてほしいこと」
今回は「文科省」から「学校事故被害者としてお墨付きをもらった立場」として、話を切り出したのが功を奏したのか、保健や保険担当者のような温かみや人間味はありませんでしたが、話を最後まで聞いてもらえたと思います。
このような過程を経て、今度は、学校に向かって、「学校事故としての責任」を認めてもらうことになります。
待てども待てども、この時点で、何も謝罪(=責任を認めその後の対処を約束する事)
を貰っておらず、「廃人」のようになってゆく娘を毎日見ながら、目の前が真っ暗になりそうな感覚に捉われていたのです。
行政書士さんに第3者として同席してもらい、話し合いの場を持ったのですが、管理職としては教頭先生が同席されました。
もしも、学校事故としてこの件を慎重に扱うように、との通達が教育委員会からしっかり伝わっていたならば、「学校長」が来るべきではなかったのかと、今となっては思います。
教育委員側のこの事故への認識が軽くてきちんと通達しなかったのか、学校長の判断で出てこなかったのかは、「卵が先か、鶏が先か」という問題のような気もします。
事故当時は学年末であり、この時の一番責任がある立場の校長とは一度も顔を合わせぬ間に、転任されていかれました。万一、教育委員会(や同等の他機関)に栄転出世の天下りをされていて、私達被害者側の電話を取るほうの立場になっておられて、この事故を隠蔽するためにあらゆる人脈と権力を行使して、学校側にもプレッシャーをかけていたりしたら、これはこれで面白いドラマ仕立てになるなぁ、と今ふと思いついたりしました。全くの想像ですが…
教育委員会からの通達が入って初めて学校長が姿を現わすという場合はよく見聞きしていますが、この事故に関しては、そうような「校長が対応する案件」になるまでには1年以上が経過していました。
やはり、人生が変わるほどのダメージを受けた私達、特に被害者の娘に対してだけは、学校長が出てきて、優しく親身な言葉をかけて心からの謝罪をしてほしかったという気持ちは今でもあります。
「学校からの対応の中で娘が始終「軽い扱い」をされていた」という空気を作り出した元凶は、娘や私たちの顔も見ずに学校を去ってしまったこの校長の考え方にあったのかもしれません。
そんな中で私達が絶望のあまり息も絶え絶えになっていた翌春、2019年3月18日の神戸新聞に娘と明石の主治医のコラボで「脳脊髄液減少症と保険制度」についての記事が掲載されました。
メディアの力は凄いものです。
私達は頼みもしていないのに、現校長先生が初めて私たちの前に引っ張り出されてきたのです。
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