娘が神戸市の公立中学校の生徒となってから、色々感じてきた事を書き始める前に、私達がここ、神戸に住むようになった背景を少し書いておこうと思います。
娘が神戸に初めて来た日
もう遠い記憶の昔、私自身完全に忘れていたのですが、娘は幼い頃に一度だけ神戸に来たことがあります。
先日、Googleフォトが勝手に昔の写真から「11月の思い出」アルバムを作ってくれたようで、それがGメールに届いており、それを見て「あれっ…これ神戸でない?」と初めて思い出したのです。
それは2010年、年長さんの頃のようでした。
マンホールの蓋にパンダの絵が描かれているので、「王子動物園」まで、はるばる京都から電車で来たのでしょう。よく見ると、やはり、KOBEと書かれていますね!
同じく写真アルバムの一枚。まるで「おさるのジョージ」ですね。
「Curious George」は、娘にとってこの頃は非常に近しい関係で、英語版の絵本やアニメを毎日のように見ていて、ぬいぐるみまで持っていました!完全に大好きなジョージになりきってますね。simpleな顔の造形もそっくりです!
この時、娘と乗っていたらしい観覧車から撮った風景。やはり神戸。今は見慣れた港が遠くに霞んでいます。
幸福で悩みなき幼少の思い出の1ページである神戸…
「おしゃれで垢ぬけて自由な雰囲気の神戸」というイメージはその頃の私たちのものです。
娘がその「神戸」に再び足を踏み入れることになったのは、それから6年後の小学5年生になる4月のことでした。
娘が神戸に住むことになった顛末
娘は、4年半前に、やむにやまれぬ理由があって因縁の地となる神戸に再び来ることになってしまいます。
それまでは、色々あって(主に病気が理由)子供2人が京都や大阪で色んな学校との関りがありました。
その中で、私たちにとって、「原因のわからない難病でどんどん衰弱していく息子」が、生活の中心であり、住む場所や学校や進学にしても、息子の事情が最優先であるという不文律がありました。そのため、台湾系の「大阪中華学校」に馴染んでいた娘は犠牲となり、小4で公立小学校に戻り、そこで辛い思いをすることになったりもしたのです。
息子が中3の今の時期、小学校も中学校も、最後の頼みとする塾も満足に行けないような体調が更に深刻になり、全日制に通い進級するのはどうみても不可能のため、既に通信高校を探していましたが、記念受験として神戸市東灘区の私学にを受けたのです。
複数の教科でまだ未履修の部分がかなりあり、古典・漢文などは全く手を付けない状態なのでダメだろうと思っていました。
が、奇跡的に未履修の部分が出なかったことで、受かってしまったのです。受験当日も、試験時間中に気を失ってしまわないような覚醒作用のある薬を処方してもらい、その副作用を抑える薬も沢山飲みながら乗り切るという酷い状態でした。
その当時、ある病名(結果的に誤診に近いものでしたが)でかかっていた担当医が、真面目な顔で言いました。「お母さん、他の学校なら敢えて行きなさいとは言いません。でも、この学校は行かせてあげましょう。T君が、歩ける範囲の所まで、頑張って引っ越してあげてください」と。
その2か月後、私たちは神戸市東灘区の息子の高校から徒歩5分の距離の「最安値のファミリータイプのマンション」、後で気づけば上もお隣も外国人労働者ばかりのマンションの一室に住むことになります。
そんなことは気にならず、商店街の中にあったので、「住めば都」以上でした。娘の小学校区も、地元の人たち曰く、「良い方に」入っていたため、結果的にはすごく良い物件だと当時は喜んでいました。(後に悲惨な目にあい引っ越すことになりましたが…)
当初は、息子の体調が体調だけに、「今まで、病気のために本当に辛く苦しい子供時代だったから、1学期間、いや、1週間だけでもいいから、憧れの学校で高校生としての生活を送らせてあげたい…」という親心で、有り金はたいて京都から移ってきたのです。その時は、まさか、こんなに長く神戸に住むことになるとは夢にも思っていませんでした…
というわけで、マンションの家賃が軒並み高い文教地区にあって、敷金礼金ゼロという、この近辺ではあり得ない底値の物件に決め、娘の神戸生活がここからスタートすることになります。
*今日の娘の状況… 低気圧に反応して体調悪化。昨日に引き続き、起きられず、食べられず、頭痛ありという3重苦になっています。( ノД`)…
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