9月7日土曜の深夜、ホスピスでの緩和ケア43日目の夜である。母の看取りが終わり、後の整理がつくまではブログから離れるつもりであったが、あまりに苦しいのでそれを文字に落とす。
9月3日に下顎呼吸が見られ「危篤」になり4日目である。昨日からの死前喘鳴が大きく鳴り響く家族室の深夜の風景である。命の灯が消えようとする祖母の傍らで娘も眠る。
昨日は、兵庫県のある病院の診察を受けに行った。その前夜までほぼ毎日、祖母が最期まで一時の苦しみや痛みのない状態で最期まで眠れるよう、夜中も母の苦痛を見逃すまいと、交代で付き添いをしていた。
そんな中、危篤の知らせから3日目の9月6日、1か月以上待ったその初診を受けるため、前日の夜に、後ろ髪をひかれる思いで京都を去った。この診察を逃せば、数か月待ちになり、娘の行き詰った現在を打開する道が絶たれることになりかねない。
もう母の生きている姿を見るのはこれが最期と覚悟して神戸に戻り、6日の診察を迎えた。午前と午後に分かれての診察であったが、事情を知った午後の先生が、「来週でいいから、早く戻りなさい」ということで午前のうちに病院を出て母の待つ京都へと向かった。
ホスピスの母は、まだ頭がはっきりして言葉も話せた2週間前までは、癌という病の壮絶な痛みの合間に、孫娘のことを案じ、私が看病に行くたびに、「くーちゃんはどうや?治してもらえそうか?」と何度も問いかけてきた。京都までの移動が身体に負担になるため、母の病気がここまで進行するまでは、週末は病気の娘を神戸に置き去りにすることもあった。
しかし、いよいよ「おばあちゃん」に会える日も残り少ないという知らせが入った日からは、娘も病院に泊まるようになり、天候の悪かったこの週は、起きられずにほとんど家族用の簡易ベッドで寝て過ごしていた。
自分の事より孫娘の境遇を案じていた母も、2週間前から、医師の予告通りに、状態が目に見えて落ちてゆく日々が始まった。そうして、まさに今、私の目の前に、意識はすでに落ちてしまった状態で、「死前喘鳴」という、恐ろしい4つの表意文字が紡ぎ出す語感イメージそのままの、地鳴りのような呼吸音を発し、目を瞑ったまま、86年の人生に終止符を打つ地点を計りかねている母がいる。
下顎呼吸が出現した火曜には、誰もが「今週一杯は難しい」と言い、死前喘鳴の始まった一昨日には「既に余命は時間単位」と言われた。
そんな中、孫娘が遠く離れた地の病院の大切な診察に向かい再び戻ってくるまで、母は活き続ける意志をまだ失わなかった。
風前の灯となった命の蝋燭の火を絶やさぬように、苦しい呼吸を継続する確固とした意志を捨てない母の心にあるものは何なのか?
死の直前には、生涯の出来事が脳内のスクリーンに去来するというが、最晩年に味わうことになってしまった「痛手を負わされた孫娘の悲哀の身体と心」の箇所で、映像が留まっているのか。
可愛がっていた自慢の孫娘が、不安と苦しみに喘ぎ、涙にまみれた毎日を送る中、その不条理な悲運が救済されることを見ずして、哀れな孫娘の手を握ることが二度とできない遠い世界へ旅立つことが、あまりにも心残りなのだろうか。
酸素マスクという最期の命綱に繋がってベッドに横たわる母。背後から見るその姿は、眼前で寝息を立てて、現実の苦しみを逃れるための束の間の夢を見ながら、赤子のように無防備に眠る孫娘の姿を、今までと変わらず優しい目で見つめているようだ。
「死前喘鳴」という、声にならない切ない響きの中で、不憫な孫娘の行く末を案ずる余り、病魔の苦しみから解放され別の世界に旅立つ踏ん切りがつかず、小さな傷ついた魂を見守り続けているようにしか見えないのだ。
(最近、コメントを頂いた方、心より感謝いたしております。母の事で気持ちの余裕がなくお返事が滞っており申し訳ございません。明日より少しずつお返事してゆく所存ですので、もう少々おまちくださいませ)