Friendshipは船と港 ~藤田くらら 小6でTOEIC980点までの軌跡~

小学6年でTOEIC980点を取った女の子のお話。中学1年での、学校体育時の事故が原因で「脳脊髄液減少症」を発症。寝たきりから「復活」の兆しが…

ホスピスで「日常」と「非日常」が交錯した日

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先日、母親の入院するホスピスで一夜を過ごした。

まだ、家族が夜通し付き添いをするという状態ではないのだが、痛み止めの麻薬の量が増えたためか自分の感情をストレートに出す傾向が強くなっている。

 

「帰らないで欲しい。!ずっとついていて欲しい!」と訴える。連日の昼間からの付き添いで、病気の孫娘が放ったらかしになってるという事を忘れてしまっているようである。本来は遠慮がちで、このような事を言う人柄ではなかったのだが、最終段階の痛み止めの薬効の副作用は人柄まで変えてしまったのだろうかか・・・

 

癌の痛みは夜間に襲って来る。内臓が癌だらけになっているのでどの臓器の痛みか特定できない。みぞおちの少し左が特にひどく痛むようで、本来痛みに強い人であるのだが、とても我慢できるものではないらしい。

 

耐えられるだけ耐えてから、ナースコールを押すのだが、夜間は2人しかいない看護師さんがすぐに来れない事もある。それを待つ間が地獄の苦しみのようで、もう最期の時が来たのかと思って「家族に連絡してください!」と何度も頼んだのだそうだ。

 

夜間は2人の看護師さんで15人の世話をされる。タイミングが悪いとすぐに対処してもらえない。「痛い、苦しい」と唸ったりせず、その上我慢の限界までナースコールを押さないので、看護師が来て薬を増量して効いてくるまでに痛みはMAXになってしまうらしい。

 

そんなわけで私が付き添って、痛い時には、即ナースステーションに行って直接看護師さんを捕まえてきて欲しいと言うのだ。何か違いがあるかはわからないが、心細い風情の、弱り切った病人の切実な意に沿って、急遽、簡易ベッドを借りて布団もレンタルして一晩付き添った。

 

足の浮腫が心臓に負担をかけているということで、利尿剤を飲んでいるため、1時間に1回ベッド横の簡易トイレに起きるのを手伝う。まぁ眠れないという事なのであるが、一晩くらいは大丈夫だ。徹夜を覚悟で暗闇の中で色々思いを巡らせていた。

 

普段は他の患者さんの見舞いの家族に会うことも少ないのだが、その夜は、夜遅くまで廊下を歩く家族さんの姿が目に付いた。皆寝静まった夜中の12時ごろになって、その人たちが並びにある部屋の一つの病室に集まってられることに気づいた。

 

ホスピスは、病室の戸を締めず開放されているため、中の会話が聞こえてくる。そこでは、患者さんの昔住んでいた土地の事や、思い出話らしきことを、おそらく娘さんであろう、女性たちが大きな声で語りかけていた。

 

「いよいよ最期を迎えられるので、親族が集まっているのだな」と思っていたら、1時間ほどして急に静かになった。本当にふっつりと声が消えたのだ。私の意識のなかでは、患者さんが持ちこたえられたのをご家族が静かに見守られているような気がしていた。その後、うとうとしながら朝を迎えた。

 

になって廊下に出ると、その部屋のドアは閉じられていた。普段は閉じられることのないドアだ。夜中に何か異変が起こったことは明らかであった。


娘さん世代の私くらいの年齢の女性たちが、ひっきりなしにドアを出入りして中から大きな荷物を運び出している。

 

「やはり昨夜亡くなられていたようだな・・」と思ったが、昨夜の話声の後の静かな様子といい、目の前の、身内の方のてきぱきと動かれる様子は、私の思い描いていた「肉親を亡くしたばかりの家族像」とは違っていたため、不可思議な感覚があった。おそらく夜間に亡くなられたご遺体は、朝が来るまでにどこかに運ばれた後なのだろう。

 

そうして数時間経った午前10時頃、母が落ち着いていたため、息抜きにナースステーションの前の大きな休憩室で高校野球をぼんやりと観ていた。休憩室に面したテラスには、様々な植物が真夏の太陽を一杯に浴びている。見舞客の誰もが「とても居心地所がよい」という休憩室である。

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ほどなく、不意に、その部屋の閉じられていたドアが大きく開かれたままになった。

一瞬で、明らかにその場の雰囲気が変わったのを察した。

その部屋の奥から清澄で厳かな空気が流れ出る。

 

一方、看護師の殆どは、他の部屋の患者さんの世話をしたり、いつも通りの仕事をこなしている。私はその傍らの休憩室でのんびりと高校野球を観ている。誰もテレビを消しに来ないし、そこを立ち去るような配慮も求められない。


全てが、「平常」そのものなのである。

 

その部屋のドアが開くとほぼ同時に、エレベーターの前に待機していた、医師だとばかり思っていた白衣を着た体格の良い男性2人が、さっと動き出した。彼らの間の銀色のストレッチャーは、私の座るソファの背後を通って、高校野球の歓声を背にその病室に消えていった。

 

ここで咄嗟にテレビの音量を下げた。でも、消すべきかどうか躊躇があった。

 

亡くなった人を送りだすという、世間での「非日常」が、この病院の「日常」の空気のなかで進行しているという、今までに経験のないこの状況。

 

常識内の想定に沿って、そっとテレビを消して、その場を立ち去ることが、かえって「非日常」を演出してしまうことになる。それが、何故かこの場に関わる人達の意にそぐわない気がしたのだ。

 

背後で起こっていることに気づかない様子で、このままのんびりとテレビを観ている(日常)ようなふりを続けていたほうがいいのだろうか?それとも、この厳粛な場(非日常)で「部外者」である私という存在を消すべく、即、立ち去るべきなのか?

 

私の頭の中の混乱とはお構いなしに、その部屋の中でなされるべきことは迷いもなく整然と速やかに進行する。一体、どうしたらいいのか?

(続)

 

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