母が入院するホスピスで一夜を明かした翌朝の、人生で初めての感覚を伴う出来事を綴っている。
その時、私は確かに動転していて、画面を消さずに音声を極力小さくするという何とも中途半端な対処をしていた。
椅子に座った私の背中のすぐ後ろを通ったストレッチャーが、新たに病室から出てくるときのことを考えると、そそくさと通路から遠い奥のソファに移動した。向きが180度変わって、通り道に顔を向けた位置である。
ストレッチャーが部屋の中に入ったくらいから、その病室前に人が集まりだし、手の空いている看護師さんや、親族の方が入り口近くに並ばれている。
そうして、白衣の大きな男性を先頭に、明らかに「人」を載せたストレッチャーが部屋から姿を現した。その歩調は、速くもなく遅くもなく、何事もないようにこちらに向かってくる。
高校野球の画面と、それを観ているふりをする私。その前を大きな男性2人に前後を守られるように、ストレチャーの上の白い上下のお布団の中に、その方はおられた。
本当に驚いた。お顔は覆われていない。(他の患者さんへの気遣いであろうか?)
一見、普通の患者さんが移動されているようにしか見えない。もう、この部屋には戻ってこられないと知る術は、ご家族の方が、看護師さんや先生にかけられる「お世話になりました」という言葉だけであった。
横から見た表情は、とても穏やかで微笑んでられうようにさえ見えた。お顔が半分黄色くなってられたが、母親の黄疸の出た顔を見慣れているためか、不自然には思えなかった。
そうして、粛々とかつ平常通りの歩調を乱さず、その一群はエレベーターの中へ進み、ドアが閉まると視界から完全に消えた。
一部始終があまりにも、このホスピスの平常の朝の風景に見事に溶け込んでいたため、私はその方に手を合わすことさえ忘れていた・・・
静止した画像が再び動きだした。看護師たちは、患者さんの部屋から部屋へと回り、忙しそうに立ち働く。私は音声のボリュームを落としたままのテレビ画面を半ば放心したように見つめていた。
実は、18歳の頃、一般の病院で祖母の最期に立ち合った時とのコントラストがこの時すでに頭にあった。
末期癌のもたらす最期の呼吸の苦しみの中にいた祖母の脈拍が停止すると、男性医師は大きな器械を持ち、心臓へ電気ショックを何回もして、女性の医師が心臓マッサージを続けた。私達家族は、その様子が恐ろしく、祖母が死亡の宣告を受けても、しばし唖然としたまま悲しみを表すことができなかった。
きまりの悪い時間が流れる中で、女性の医師が諭すように言った。「お体に触ってあげて、泣いてあげてください」
それが合図のように、現在、今際の際(いまわのきわ)にいる、私の年齢くらいだった母が、祖母の亡骸に取りすがって泣いた。他人に、「泣いてあげてください」と言われ妙な気持ちがしたが、私も声を上げて泣いたと思う。自分でもぎこちない悲しみの現し方だった。
慌ただしい、蘇生の恐ろしい試みを見た後に、急に穏やかな気持ちになって永遠の別れを悲しむ、というのは少なくとも当時18歳だった私には、連続性のない2つの異質なシーンであり、自らの「自然な自発性」がその橋渡しをすることはできなかった。
今思えば、長期間、癌で苦しんでいた祖母がやっと苦しみから解放され安らかに永遠の眠りにつこうとした時に、あのような強引な蘇生行為は必要はなかったと断言できる。患者の事を第一に考えればあんなことはしてもらうべきではなかった。家族に向けて、「最後まで全力で患者の命を助けようとしている」とのパフォーマンス的な意味もあったのだろう。
一方、今回私が遭遇したホスピスでの深夜の家族との最期の別れは、静かで穏やかなものだったという空気が、あの夜の開け放たれた病室の入り口から入口へと伝わってきた。
亡骸に取りすがって大声で泣くという愁嘆場は全くなかった。そして、亡くなられた高齢のお婆さんも、沢山の家族が見守る中で、安心して眠るように息を引き取られたのだろう。家族もご本人も納得された最期を迎えられたに違いない。翌朝の穏やかなお顔の表情がそう語っている気がした。
「ホスピス」には、もはや治療法がなくなった患者さんが、最後の痛みや苦しみを緩和して、残された最後の日々を痛みに耐えるのではなく、苦痛の少ない穏やかな時間を過ごすために来られる方が殆どである。
なので、ここに来た時から、家族と患者さん双方に心の準備ができていたと言えばそうかもしれない。
が、この日の深夜から朝にかけて、一人の患者さんの死に立ち合われたご家族や病院スタッフを、心理的には遠くから、距離的にはごく近い同じ空間といってよい位置から傍観することになった私には、「人間の最期」への新たな悟りのようなものが確かに生まれた。
ホスピスという、最期に向かってゆく患者さんの心の平穏を第一に考える場においては、ここで迎える「死」というものが、何ら特別なものではなく、人間の一生という「日常の連続」の最期の一場面に過ぎない事を、患者やその家族に優しく諭してくれて、和やかに別れを受け入れられる時間を与えてくれている気がする。
この日に迷い込んだのは、あたかも、真夏の夜の夢が白日夢に遷り変わるような、現実であって現実のようでない、「日常」と「非日常」が交錯する「場」であった。
そして、この特異な感覚的経験は、このホスピスでの、もう遠くないであろう母の時の状況の一つ一つに既視感(デジャヴ)を持たせるものになり得ていることを既に予期してしまっている。