頭痛ーるの爆弾低気圧予報
今日は、昼から気圧がダダ下がりで、頭痛ーるを見ると、授業の始まる3時くらいからは爆弾低気圧のマークが並んでいる。今日も娘は起きられるだろうかというはらはら感で一日が始まった。
学校事故以来、「人間気圧計」となっているの脊髄液減少症患者である娘は案の定、朝10時ごろ起こしても起きられず、昼の1時に無理やり起こしてテレビで大好きな卓球のJapanオープンを見せても、目を開いていられない。
こういう日は食欲も無く、食べてもうまく消化されない事が多いので食べないという。
先生が来られている時にお腹が痛くなるのがいやなのだそうだ。
まぁ、兎に角ぎりぎりまで寝かせて、何とか3時からの授業に臨んだ。トイレに何回か立ったが、最後まで乗り切れた。
古典を学べる喜び(母である私の)
現在は、2年生の教科書の真ん中あたり、古文と漢文を教えてもらっている。昏睡状態の時は、「日本人と生まれて、古文も知らぬまま中学を終えてしまうのだろうか・・・」と切ない気持ちになっていたが、長いトンネルをさまよい、やっとここまで辿り着いたと思うと感慨ひとしおである。
当然の事ながら、一年間すっぽりと完全に抜けた全ての教科を網羅するのは時間的、体力的に、そして一番の問題である頭の状態的には無理がある。
なので、訪問授業が決定して「週2回の授業に何をしたいか?」、と聞かれた時、迷わずに「国語、特に古文と漢文をお願いします!」とお願いした。
もう一教科は、「数学!」と答えたが、これはあくまで今後の受験に必要になるためである。(おそらく)文系人間である娘にとって、数学は人生に必要か?重要か?と言われれば「う~ん、無くても大丈夫かも」となるしれない。
でも、国語は違う。国文法なんかは別に知らなくても人格形成に影響はないとは思うが、ある程度の日本の文学作品も古典も知らずに、いくら英語ができたって、私としては、そんな薄っぺらい人間は感心しないところである。
取り敢えず、短期間でその端緒を掴むところまでは導いていただけたことは、訪問授業の先生方には感謝の限りである。
中学校の古典
は、やはり『枕草子』が導入となるのは、私の時代から変わっていない。日本語ではあるが、全く違った語感を持つ古典を学んだ時の新鮮な感覚が蘇った。
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光て行くもをかし。雨など降るもをかし。
秋は夕暮れ。夕日の差して山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。
冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりてわろし。
〇十年という月日をへて、あらたに触れてみると、子供の頃とはまた違った趣があるのはいとをかし、である。
この〇十年、色々な国の季節を経験した。
カナダの原風景といえる雪景色、台湾の夏のスコール、イギリスのリリパットレーンのような花が咲き乱れる古民家、印象派絵そのままのフランスのけし畑、ゴッホの跳ね橋の川の水の冷たさ、イヴ・モンタンとシモール・シニョレの眠るパリのペール・ラシェーズ墓地の秋に舞い散る「枯葉」、スペインアンダルシア地方の青い春の空気、夏のローランギャロスの赤土、ロワール川の古城に潜むフランソワ1世やレオナルドダビンチの亡霊、エジプトの婚礼のベリーダンス、イスタンブールのブルーモスクの凍てつく空気、パルテノン神殿の紫色の朝靄 etc・・・
結論としては、『枕草子』の季節感は、どの国の四季にも当てはまる事はない。
清少納言の筆から生まれた、これほど端的に日本独特の季節(感)を描写している文章は、まさに見事としか言いようがない。
この後は、兼好法師の『徒然草』が出てきて、『平家物語』に入る。
プリントで確認しつつ、教科書を進めていっているようだ。右手親指の腱鞘炎が慢性化していて字を書くのが辛いらしい。今日は、手首にテーピングとサポーターをして臨んだ。手に力が入らないのでミミズ文字になっている。こちらも重症で治療が必要。
そうして、漢文。今の中国は政治的にいろいろ問題があるにせよ、古典は別世界。
李白や杜甫の作品も、やはり、〇十年前とは変わっていない。変わらないのが古典。
歴史が認めたその価値は不変である。
こうして、国語の勉強が進むと、今度はどうしても歴史的知識が必要になってくる。
作品を深く味わうためには、時代背景や、文学史、芸術史を学ぶことが望ましい。
やはり芸術と文学、歴史というのは、「考える猿」である人類に与えられた智と感性への醍醐味で、それを存分に味わえる能力のある人は幸せであると思う。
それを生み出す人間が精神の病を患い苦しむことが多々あるのは皮肉であるが、やはり、その点は「創造者」よりも「鑑賞者」でいるほうが平穏で幸福な人生を送れるというものなのかもしれない。
おっ、創造するものの苦しみと言ったが、教科書で次の教材は太宰治ではないか!
(②に続く)