京都に戻ったのが3年前の5月。
京都洛西のほのぼのとした緑が萌え始めの季節だった。
京都は東西北が山に囲まれ、西山から東山まで車で30分ほどで着いてしまう狭い盆地だけれど、東西南北、それぞれの暮らしの色は全く異なる。
有名な観光地や神社仏閣は北や東に多くその文化水準の高さもあって、西山の麓育ちの私にとっては少々敷居が高く感じたりもする。
京都をろくに味わう事もなく、長年海外を転々とし、それから大阪、神戸に居を移し、久々に帰ってきた地元西山付近の四季の移ろいは、思いのほか私を優しい気持ちにさせてくれた。
ここを永住の地にしたいと、この歳で初めて思った。
3度目の木蓮の花が今年も見事に天に生命のベクトルを伸ばす。
2人の子供たちの行く末がまだ危うかった3年前から毎年、白木蓮には娘、紫木蓮は息子を投影していた。このすべての花を上に向かって咲かせる2本の木蓮の、大地からそのためにエネルギーを吸収している力強さが、長年の病を経てやっと二本の足で立てるようになった子供たちにも蘇るように、祈りにも似た気持ちでこの短い開花期を眺めていた。
そして3年目の今、2人ともあの衰弱しきっていた日々とは別のエネルギー体と化したかのようになっている姿に、長く短い年月の経過を感じる。
物理的な体調云々の話ではなく、心が前を向いて次に繋がることになる今を生きることに集中できているという意味で。
曇りきっていた水晶の玉が、試練によって磨かれ、内に秘めた情熱はその発露を求め、懸命に今を輝かせようとしている。
既に、親の言葉が及ばない年齢となり、親の能力を遥かに超えたことに取り組んでもいて、自分がもうほとんど必要とされていない事には薄々気づいていたけれど、娘が高校を卒業した今、自分の子育ては本当にこれで終了したと実感する。
「鳥の巣症候群」にも似た精神の脱力感を感じる今年の春。
未熟な人間が親となり、親として喜び、親として苦しみ、親の役目を終え、今一人の人として子に対峙できる魅力が果たして自分にはあるのだろうか・・・
そこのところが最近少し気になっている。
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