Friendshipは船と港 ~藤田くらら 小6でTOEIC980点までの軌跡~

小学6年でTOEIC980点を取った女の子のお話。中学1年での、学校体育時の事故が原因で「脳脊髄液減少症」を発症。現在はほぼ寝たきりとなり1年が経過しました。

李白の詩『塞下曲』と学校事故被害者である私達との驚くべき共時性(シンクロニシティ)

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昨年、娘が床に臥すようになってから手に入れた額である。

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出自於李白的《塞下曲六首・其一》

無学なため書体が何であるかは定かではないが(隷書体?)、形的にすごく好みでまさに「一目惚れ」であった。その上に、表装がきれいなピンクで、部屋が明るくなっていいなと思いヤフオクで落札した。案の定、競合する者はなく開始価格の500円で手に入れることができた。今は自宅、小さいリビングの小さいベージュ色のソファの上にかかっており、部屋の雰囲気を優しさの残る程度に引き締めてくれている。

 

書いてあるのは、中国盛唐時代の李白の詩の一部である。 

 

五月天山雪,無花只有寒。
笛中聞折柳,春色未曾看。

曉戰隨金鼓,宵眠抱玉鞍。
願將腰下劍,直爲斬樓蘭。

 

 

 

 【読み下し文】

五月 天山の雪,
花無くして 祗(た)だ 寒のみ 有り。
笛中 折柳(せつりう)を 聞くも,
春色 未だ 曾て 看ず。
暁に戰ふに 金鼓に 隨(したが)ひ,
宵に眠るに 玉鞍を 抱く。
願はくは 腰下の劍を 將(も)って,
直ちに 爲(ため)に 樓蘭を斬らん。 

 

【現代語訳】

五月的天山仍是滿山飄雪,只有凜冽的寒氣,根本看不見花草。
只有在笛聲《折楊柳》曲中才能想象到春光,而現實中從來就沒有見過春天。
戰士們白天在金鼓聲中與敵人進行殊死的戰鬥,晚上卻是抱着馬鞍睡覺。
但願腰間懸掛的寶劍,能夠早日平定邊疆,爲國立功。

(『讀古詩詞網』より引用)

 

*繁体字のサイトだったので興が乗り、素人翻訳を試みた💦間違いがあればご指摘願うか面倒くさければスルーして頂きたい。

 

(旧暦)五月の天山(山脈)では今なお雪が降る。厳しい寒さだけが残り、暖かい季節の訪れを告げる花を見ることはない。

聞こえてくる『折楊柳』の曲の笛の音に、かろうじて春の光に思いを馳せることはできるが、現実には(柳が芽吹く)春の気配などは、まだ一度も見ることがない。

戦士達は日中、鉦(かね)と太鼓の音に従い身命を賭して戦い、夜には、立派な馬の鞍を抱いて眠る。

願わくば、腰に下げた剣で,早々に辺彊の地を平定し、国家のために功を成したいものだ。

 

*詩の中の、願將腰下劍,直爲斬樓蘭 (願わくば、腰に下げた剣で,ただちに樓蘭を斬ってしまいたいものだ)は、「傅介子等が楼蘭王を斬り殺したという故実」のように、辺疆の地を征伐をしたいという比喩として使われている。

 

 

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今更ながら痛感するのであるが、この額縁の中の李白の詩は、娘が不幸に見舞われ、家の中も「お通夜状態」になっていたこの1年少しの間と、この五月に入って少し希望の光を感じるような気のしてきた、私たちの心情を一語もたがわずに代弁しているものであるのだ。 

つい最近まで孤独な暗闇の中にいたが、力になってくださる医療関係者や支援者の方々の励まし、また、このブログを通しての同じ病気の方からのありがたい情報提供などはまさに、「折楊柳の笛の音」だ。この五月になって、この詩の中の笛の奏でる「折楊柳」が春の訪れを予感させるように、現在あるいくつかの動きから、春はそう遠くはないのであろうかという気持ちになってきているのである。

 

とはいっても、まだ現実として(娘の回復の確かな手応え)は感じることはく、今尚表面上は雪をかぶった天山山脈の状態なのであるが、その意味でもまさに、5月の現状はこの詩の現すような様相を呈しているといえる。

 

初夏であっても冷え冷えとして草花も見えない雪に覆われた天山山脈の風景はまさにこれまでの我が家の心象風景と一致しており、いつもこの額を眺めながら、「あぁ、我々には一体いつ春が訪れるのであろうか・・・」という沈んだ気持ちと、「それでもいつかはきっと春が来るのだ!」という希望を無理やりにでも持って、狭い家なので嫌でも視界に入る「眠り続ける娘」を見てもできるだけ気持ちがが落ち込まないようにしている自分があった。

 

そして今日更に驚いたことがある!

この詩の残りの部分を新たに調べて上に載せたのであるが、その部分もまさに、余すことなくこちらの状況のメタファーとなっているではないか! 

 

この詩の後半部分に重なって見えるのは、事故のはじめから今までの私の姿である。昼は、娘のために各地を奔走し、仕事もし、姿の見えない敵、即ち不可解な制度であり、守りの態勢に入った組織であり、当事者たちの無関心(具体的には学校保険制度やら教育委員会やらその他幾つかの迫害的なもの)と戦い、夜は疲れ果てて枕を抱いて眠る毎日であった。 

 

そうだ、私はこの1年「兵士」としての過酷な日々を送ってきたのだ。どうりで近頃、気の弱い本来の自分とはかけ離れた好戦的な人間になったような気がしていた・・・

美容院にも一度も行かず、白髪だらけの髪を振り見出し化粧も全くせず、既に自分が女性であることも忘れ、気が付けば、戦士として戦う日々を送っているのだ。

 

李白は自分が戦地に赴いたわけではなく、天山山脈の前線で戦う兵士の気持ちになってこの詩を詠んだのあろう。

 

そうして今度は、遥かなる時空を超えて、李白は日本の神戸に、この詩と出会うにふさわしい人間達を見つけたのだ。

 

李白の魂は21世紀の神戸という地に降臨したのである 

 

不思議なものだが、ヤフオクを通して心と現象の一致起こったということだ。これは、ユングの言う共時性(synchronicity、2つの出来事の意味ある一致)というのもであろうか。

偶然には意味があり、その3つの分類の中の、「心的状態と同時に生じる、それに対応するような客観的・外的出来事との関連」とも考えられると思うが、あながち見当違いとは言えないのではないだろうか?

 

私の心的状態とヤフオクでのこの李白の額との出会いは、偶然であるがそこには意味ある一致があった。それは共時性を持った偶然であったのである。

 

 

学校事故により絶望の淵に追いやられ、責任を取るべき全ての人間から見捨てられた状態になっていた娘と私達家族。何とか娘が人間らしい生活を送るための人権を取り戻すべく、見えない敵と戦うための戦略を考え、戦闘も辞さない母である私。

 

その心情は、まさにこの詩の中の兵士のように「命を賭しても」娘をこの窮地から救ってやるという切実な覚悟を秘めたものである。

 

そうして、「傅介子等が楼蘭王を斬り殺した」ように、「言論」という剣で、何の罪のない子供を苦しめている不条理な制度やそれをとりまく人間に対して私はこれからも戦いを挑んでゆく。 

 

しかし、天山山脈も夏になると花が咲く。冬が過ぎればきっと彩り豊かな明るい春が訪れるという大自然の法則を信じて、今の辛い時期を乗り切ってゆこうと思っている。

 

冬来たりなば春遠からじ  である

"If winter comes, can spring be far behind?" 

by Percy Bysshe Shelley

 

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天山山脈の高山植物のお花たち