Friendshipは船と港 ~藤田くらら 小6でTOEIC980点までの軌跡~

小学6年でTOEIC980点を取った女の子のお話。中学1年での、学校体育時の事故が原因で「脳脊髄液減少症」を発症。寝たきりから「復活」の兆しが…

TOEIC980点への読書量を生み出したもの①-いじめられた日本の公立小学校との決別-

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地元の公立小学校入学式の日

娘は、2011年4月7日に地元の公立小学校に入学した。それまでは半分英語保育所に通って半分は家でぶらぶらしながら、好きな英語ビデオを見たり、本を読んだりスカイプをしたりする一方、バイオリンを母である私につきっきりでさせられていた時期だ。東北大震災の津波のショッキングな映像を観たのも、2人でリビングでやいやい言いながらバイオリンを練習していた時のことだったのを鮮明に覚えている。

入学式の日は、胸元が白いレースの紫のビロードのワンピースの胸のところに、黄色い名札を、兄と同級生の6年生のお姉さんに着けてもらってとても嬉しそうにしていた。どの写真を見ても、小学1年生になったのが嬉しくてうれしくて、期待に胸膨らませ「むふっ♡」という感じで、喜びを隠しきれず、にやにやした顔で映っており、表情も最高に輝いている。

英語保育所は地元にはなかったが、そこに入る前の赤ちゃん時代に2年ほど地元の公立保育所に通っていたため、その時の同級生となんとなくつながり感を感じながらの小学校生活の始まりであった。

日本語に多少不安があったが、学校の勉強にも慣れ、帰宅後も遊ぶ友達も何人かでき、安心していたある日、娘が私に言った。

「あのな~、クラスで私のことをブスとか汚いとか、体操服が臭いとか、豚とかいって近寄らない女の子たちがいるねん、すごい嫌や・・・」

私「誰それ?」

「3人くらいいるねん。そのうちの一人がひどい事いうのを、後の2人がにやにやして見てる感じ」

私「それだけか?他に嫌なことをされてないか?」

娘「あるねん。私が普通にしゃべったり、笑ったりしてるだけやのに、その3人が、『うるさい~、喋らんといて』とか、『笑わんといて』って言って耳に手を当てて塞ぐねん。私は、他のお友達と話してるだけやのに・・・そして、私がその子たちに何か言おうとしても、同じことをするねん」

聞けば、その3人は、赤ちゃん時代に通った地元保育所の同級生だった女子たちではないか!娘は4月生まれだったため、もう立って歩き始めていたが、その子たちは、まだハイハイをしている純真でいたいけな赤ん坊だったのに、5年足らずでこんなに意地悪な子供に成長していたとは・・・

たちが悪いのは、一番娘に嫌なことをいう子は、保育所時代にいじめられていた子らしい。少し知的発達に問題があるらしいということも聞いた。それを、他の2人が命令していろいろ言わせていたらしく、娘をいじめることによりその女の子は、仲間に入れてもらっていたのかもしれない。こんなに小さくても女の世界はつくづく恐ろしい。

更に色々聞いてみると、娘は、入学早々何人かの男の子と馬があったようでよくお喋りをしていたらしい。そのうちの一人がその女子たちと同じ保育所出身の人気のあるカッコいい男の子だったという。娘が特にその男の子と喋ってげらげら笑っているときに、耳に手をあてて「うるさい、喋らんといて!笑わんといて!」と嫌がらせをされるという。

紛れもない「いじめ」だったため、即、担任に通報。すぐに対処してくれたが時は既に遅し。数か月続いた嫌がらせのために、娘はその子たちに近づいたり前を通ったりすることができなくなっていた。自分が何も悪いことをしていなくても心が委縮してしまい、その子達を避けて学校生活を送るようになってしまっていたのだ。

娘はもともと、心の弱い子ではない。英語保育所では、嫌がらせをされると、2歳上の10センチも身長の違う男の子に対しても怯まず、取っ組み合いのけんかをし、頬に派手なひっかき傷をつけられて、私は青ざめて医者に直行したことが何度もあった。同学年の男の子とは、つかみ合いの喧嘩をして、その子の髪を掴んで壁に頭を叩きつけるなどして負けることはなかった。担任の中国系イギリス人の先生も苦笑して、"Clara is a professional fighter!" (くららは喧嘩のプロだ!)というほど、売られた喧嘩は買い、やられっぱなしというのが無い、実に逞しい子であった。

また、少し遅れて入ってきた女の子が、かなりの陰謀家で、運動会のときも、年下の子に「私に負けんとあかんねんで!」などと、大人の見ていない所で脅していたりと、あっという間にボスの座についたが、娘はその子の配下に下ることなく、独立性を保っていた。(その頃はたまにしか英語保育所に通わなくなっていたため巻き込まれることもなかったというのもあるが)

娘はそんな感じの、心も喧嘩も強い子だったのだが、日本の学校の集団による陰湿ないじめには立ち向かう術がなかった。「また嫌な事いわれるかもしれない」という意識を常に持つようになってしまい、のびのびした本来の娘の性質は陰りを見せていた。

そんな折、ネットで大阪に台湾政府直轄の中華学校があると知り、台湾贔屓だった私は心を惹かれた。夏休みにさしかかっていたため、中華学校にサマースクールはないだろうかと問い合わせてみたら、「1週間ほど体験入学をしてみたらどうか?」というお誘いを受けた。

京都から大阪の大国町、片道1時間半の距離を私は一週間毎日娘を送り迎えした。送り迎えに8時間くらいかかることもあった。

一日目が終わり、私が迎えに行くと、娘はにこにこしながら言うではないか。

「ここのお友達は、まるで私がずっと前からいる子のように遊んだり喋ったりしてくれるよ!」

私はただ、ただ、嬉しかった。以前の笑顔が娘に戻ったことが・・・ そして、体験入学の最後の日が来る前に、帰りの電車の中で娘は宣言した。


「私、日本の学校をやめてこっちの学校に行きたい!」

                                  (続)