「暗澹たる想念の正体」も3回目となり、強烈なネガティブ思考がいよいよ深みにはまってきていることは自分でも承知である。
親たる者が悲観的な空気を作ることは娘にとって良い影響がないことは充分理解してはいるが、事件が風化する中で、被害者家族の失った物(主に無形の文化的財産)がどれほど大きいかを知ってもらうために、敢えて書き残しておくことにしている。
人間は誰もが多重な感情世界を持つ。娘の健康回復や権利の回復のために能動的に動くのも親である自分であり、大きすぎる問題を抱え込んだ重圧で、朝が来ても、もう目覚めたくなく、娘が元通りの姿になるまでこの現実から離れ、ずっと関係のない夢を見ながら眠り続けたいと弱気になるのも自分である親の姿だ。
「適性の芽」が逞しく育ち、2つの大きな蕾をつけた。
それは、音楽であり、異国の言葉であった。
母語もまだ覚束ない頃から、それらに対しての適切な環境を作り、それが歯磨きのように自然な生活の一部となり、更には、自分の血肉と溶け合うまでに一体化された結果である。
音楽の蕾
音楽(バイオリン)は、始めの7年間ほどは毎日に練習に付きあった。この楽器と娘の性質が余程合っていたのだろう。年齢ごとに設定した目標を軽々とクリアして、私が恋焦がれていた数々の曲を易々と制覇していった。
いつの間にか発表会では、トリを務めるようになり、毎年称賛と拍手を浴びた。学校では全く目立たない空気のようであった娘が唯一輝くのがこの音楽の舞台であった。
そうして、時は流れ、中1の秋に、少し背伸びして、サラサーテの「カルメン幻想曲」の練習を始める。「のだめカンタービレ」では、コンミスの三木清良が弾いて、峰に「俺の真っ赤なルビー!」と言わしめた華やかな名曲だ。
音楽本気組ではない趣味のバイオリンで、これが弾けたなら私的には「極めた」と認められる気持ちになれる曲である。プロでも本番で弾くの怖いというアクロバティックな超絶技巧も入っている。
趣味の子供であるから、怖いもの知らずでチャレンジできるし、完成度に関しても、今は自分が気持ちよく弾ければそれでいいのだから。
私はこの曲の赤い楽譜を手にして感極まった。10年間、ゆるゆるのお金をかけない音楽への取り組みであったが、とうとうこの曲を弾かせてもらえるところまで来たのだ。
娘は娘で、「結構、難しいな!」と、手応えを感じたらしく、柄になく必死に練習していた。
発表会のための深紅の素敵なドレスと髪飾りををヤフオクで手に入れ、赤いヒールが高めのサンダルも用意した。
娘には絶対音感があるので、ピアノでの音取の必要はない。楽譜が難解なところは、ユーチューブのプロの演奏を参考に耳から曲を入れた。なんとか弾けるようになったところは、私がピアノ伴奏譜を見て弾けるところだけ合わせたりして、娘に完全に迷惑がられたりしながら楽しく練習をしていた。
このような、「一つの作品を作り上げる」ための親子の幸せな時間が、幼少からの毎日の日課であった。
そのような日常は、2018年2月27日、突然終わりを告げた。13歳10か月。バイオリンと供に人生を歩んで10年目。
音楽の満ちた明るい時間と空間は、その時から ブラックアウトしたままである。
言葉の蕾
異国の言葉(英語)に関しては、もう敢えて言う必要もないが、子供の本の世界から大人の本の世界へと移行しようとしていた時であった。
事故から1年間、全く文字が読めなくなり、娘は、音の世界に救いを求めそこに自分の居場所を見つけた。
今言えるのは、洋書の神様に愛された娘はもうこの世に存在していないということだ。連鎖的に、高校で留学する夢も消えた。
娘が小学生の頃の、何か、読書の人生を生き急ぐようなひたむきさで、寝食を忘れて洋書に耽溺していた娘の姿を、なんとなく風化させてはいけないという義務感にも駆られて、時折このブログで再現している。昔を思い出して幸福感に満たされると同時に、冷たい現実に引き戻された時の反動は辛いものがある。
このように、事故の日が来るまで、私が仰ぎ見る目線の先には、満ち足りた思いを内包した、2つの異なる趣の美しい蕾がいつもあった。
1つだけでも、私には充分だったのに、娘には2つ分、私の想像の向こう側の世界を見せて貰えて、本当に感謝している。これほどの、私には奇跡のような成長を見せてくれた時には「もうこれで死んでも思い残すことはない」と心から思った。
音楽と言葉の2つの分野を極める方向に着実に進んでいた娘の日常は、「学校事故」により完全に奪われてしまった。
今でも悪夢であってほしい
そして現在、私の目の前に横たわるのは、その蕾の残骸である。
蕾をつけるまで大事に大事に育ててきた「適性の芽」は、志半ばで、心無い者達により無残に手折られてしまい、地に落ちて、踏みつけられてしまった。
娘は、13歳と10カ月で事故に遭い、その直後の14歳の1年間は文字通り「空白」であり、その間、娘は本来の娘としては存在せず、悲しみと諦念としてのみ存在していた。
そして現在、娘は15歳。本来なら、小さい頃から一日も休まず続けてきた時間と思いの蓄積が極まり、才能が開花する時期となるはずであった。
しかし、娘はその輝くはずの時期を昏睡と涙の中で過ごした。
かつての桃源郷のような幸せ色に満ちたの原風景の中で、今にも花開こうとしていた2つの蕾が、自分自身の化身であったことさえ、今は忘れてしまっている。
そして私の生きがいもほぼ消えた
今までは怖くて気づかないふりをしてきたが、その蕾の命とともに、私の夢のきらきらとした結晶も、儚くもこの世界から既に消えてしまい、今は、無限大の喪失感の中に生きていることは、否定しようのない事実である。
この、私にとっては、認めるに忍びない「現実を受け入れること」が、いよいよ避けて通れなくなったのだという、暗澹たる想念が、寝ても覚めても重くのしかかっているのだ。