前回は、昨年の2月27日の学校体育時の娘の事故以来、悲しみと怒りに呑み込まれた状態の家族の思いをお伝えしました。
孫娘の苦しみを、自分の事のように感じるおじいちゃんが無念の思いを残して今春この世を去り、おばあちゃんも現在、胆管癌末期の痛みに苦しみながらも、自分の病気より孫娘の容態を気にかけています。
願わくば、おばあちゃんの生きているうちに、娘の容態か或いは当事者の対処の仕方に何らかの進展が見られて、孫の行く末に少しは安心してもらってから旅立ってほしいという気持ちです。
(以下、この事故を巡る私の心情の変遷を記しますが、特定個人を責めたり謝罪を強制する意図は全く無く、「責任ある立場の者が被害生徒や家族に寄り添うとはどういう事か」を多くの方に理解して頂き、今後の学校事故の際に役立てて頂く爲のものです)
法的責任のある学校からの謝罪
さて、前回、読者の皆さんに誤解を与えるのをわかっていながら、確信犯的に書いたことがあります。それはこの一節です。
「私達家族は、娘をこんな状態にされても、あの事件に一番近いところにいるはずの当事者たちから一言の謝罪ももらっていないのです」
多くの方は、当事者という言葉から、「学校」「加害者」を連想されたと思います。
それは大枠で正しいのですが、被害者感情の直接向かう先の当事者は「学校」という組織ではありません。
事実、学校からは謝罪は頂いております。
とは言っても、学校で起こる事件や事故の常として、そういう「謝罪の言葉」は学校側から自発的に出るものではなく、今回も例に漏れず、待てど暮らせどそういう雰囲気ではありませんでした。
娘は入院治療の甲斐も無く、どんどん容態が悪化していくのに、誰からも「ごめんなさい」のない状態で、担任の先生が配布物を持って来られる以外は、当事者達と関わる度合いがだんだん減ってゆきました。
更に、学校側が、スポーツ振興会や互助会への、保険治療費と若干の見舞金の可能な限りの申請はされたことで、「もうこちらにできることはない。この件はひとまず終わった」的な扱いになっていたように感じることが多々あり、理不尽さと焦りを感じていました。
学校からの謝罪は得られたが
その歪(いびつ)な事の成り行きに、「これではいけない」と、ついに私は意を決して、独立した第3者的立場である行政書士さんに学校へのご同行を願いました。そして、その方の立ち合いのもとで、管理職の方を交えた話し合いを持ち、正式な謝罪を引き出すことになったのです。
もともと、学校の授業中の事故という性質上、私が求めようが求めまいが、学校に責任があるのは明文化されていることで、これは何の争点にはなり得ません。なので、管理職の先生も、当然の如く学校代表としてきちんと謝罪の意を示して下さいました。
これにより、それまでの、「誰もが当事者でないふりをする中に被害者がいる」という奇妙な状態からは少しは進展がみられ、気持ち的に少しは楽になったのは事実ですが、実際面での苦労や問題点はやは殆ど軽減しませんでした。
この謝罪はいわば、形式的と言えるもので、この謝罪があったから責任のある者として学校に、被害者の救済や権利の回復に尽力してもらえる、というものでは到底ありませんでした。学校は法的に責任を負う立場ですが、その責任を自主的に果たす権限は与えられていなかったのです。(自費治療分の支払い等)
法的責任よりも先に来るべきもの
この謝罪により、学校は法的責任を果たす立場を認めたことになったのだと思いますが、こちらとしては、それで気持ちがすっきりしたわけではないのです。
では、何が問題かということですが、
このように被害者になるまでは、テレビで、学校事故や事件のニュースが流れ、学校や教育委員会のお偉方が揃って頭を下げている映像を見たら、「これで、一件落着だな。被害者の方も満足されていることだろう」という感想を持っていました。なので、今回も学校からの謝罪を頂けた時点で、ほぼ学校とのわだかまりの感情は消えると思っていました。
しかし、自分が渦中の身になると、これで気持ちが治まるわけではないのです。
心のなかの引っ掛かりの部分は即ち、前回に書いた、あの事件に一番近いところにいるはずの当事者たち
という所の下線部分が該当します。
誰の監督下で起こった事故であるのか?
ここで、思い返して頂きたいのですが、子供が、保育所・幼稚園や小学校にいる時、転んだり、ちょっとした喧嘩で小さな怪我をした時でも、保育士さんや担当の先生が「お母さん、すみません~、私達の不注意で・・・」というようなことが何度もありませんでしたか?
こちらとしては、子供同士の問題に起因することで、大方は防ぎようもなく、先生には何の責任もないのに、「そこまで謝らなくても・・・」、というくらいの丁寧な報告と謝罪をされるのでこちらが恐縮したものです。これは、どなたにも経験があることだと思います。
保育所・幼稚園や、小学校の担任(担当)というのは、そのくらい、子供の安全には神経質に気を配り、責任感を持ってされているのです。そして、一旦問題が起こると、一番そこに近い位置にいる先生が前面に立ち、謝罪、報告、事後処理に当たるのが普通です。
そうすることで、厳密な意味で自分たちに責任はなくても、子供の心に寄り添え、保護者の気持ちも収めることができています。
しかし、中学に入って、「事故」或いは「事件」とも言っていいほどの被害を受けた今回の問題なのですが、学校内で、こちらにとって、一番初めに出てくる必要性のあると思える、最もこの事故に責任のある立場の方が一度も出て来られません。
「法的責任のある既に謝罪をした学校組織」とは別の次元で、直接的な形で「人としての道義的責任」を感じ、被害者である子供に誠意を見せるべき立場にいる人がいる、というのは被害者である家族のみでなく、この事件を知る人々の一致した見解でもあります。
その人の支配する時間と場所で、その人の指示のもとに、生徒が動き、その結果、大事故とも言える被害を蒙った生徒が出ました。何の非もないその生徒は、人生で最も、能力を伸ばし、友人と関り、人間として大きく成長する大事な時期を失いました。
しかし、その人は、今まで一度も私達の前に姿を現しません。事故の起こった時の説明責任を当事者として被害者と家族に果たす義務、或いは責任を感じられなかったのでしょうか?
私たちの求めていたのは「形式的な言葉としての謝罪」ではありません。
恐らくは一生続く十字架を背負った罪もない子供への真摯な思いやりの心の現れでなければ謝罪の意味は形骸化してしまいます。
「一点の非も無いまま暴力的に学校社会から葬り去られた一人の生徒に対する思いやりの心と言葉」を、学校での立場がどうであろうと、一人の人間として、自分の監督下で事故に遭った、長期間 哀れな状態にいるその子自身に届けて欲しかったのです。
それが、娘への本当の意味の謝罪です。
学校へ行ったある日、その人物とすれ違いましたが、素通りされました。
私は、その方を認識できますが、その方は私のことを恐らくご存じありません。やるせない思いで一杯になってしまいました。
一瞬呼び止めて一言申し上げようかと思いましたが、こちらがそんなストレスを背負うのも馬鹿らしいのでやめておきました。
再度言います。
学校は、娘の両親の前で、この事故の責任のある立場である事を認め、謝罪の意を伝えましたが、それは事故に関する自らの立場の表明に過ぎず、娘への謝罪ではありません。
今まで、誰一人として、娘の前で、こんな状態にしてしまったことを「ごめんなさい」と、心から謝ってくれた人はいないのです