前回の記事で敢えて書かなかったこと
2018年2月27日の学校体育時の事故により、運命を狂わされてしまった娘のこれまでの経過は、昨日の記事、『不条理の中で人生を奪われて』でまとめました。
この後、各方面からコメントを頂いた中に、「事故は起こるものだし同級生はわざとやったわけではないのだから・・・」という、ご意見がありました。
それはこちらの予期していたものではなく、「この記事の書き方では、あまりこちらの状況が伝わらなかったなぁ・・・」と、言葉足らずを反省しました。
事実を補足ししてコメントをお返ししましたら、「そういうことか!」と納得され、かつ驚かれていました。
昨日の記事は、あれでもかなりトーンを押さえて書いていたつもりです。
記事の中では敢えて触れない、触れればただではすまされない、私が一番、憤りを覚えている「ある事実」があって、それは、私のこの事故に対する感情形成に非常に大きく作用しているのですが、昨日の記事の中はそれを書くことは敢えて自制しました。
しかし、これを書かない事には、何故、私達家族と、何より娘の心が踏みにじられたと感じているのかが読む方に伝わらないので、ここに書こうと思います。
私達家族は、娘をこんな状態にされても、あの事件に一番近いところにいるはずの当事者たちから一言の謝罪ももらっていないのです。
被害者家族の思い
なるほど、改めて自分の書いたものを読み直してみると、我ながらその憤りは尋常でないように思わせる表現がいくつかありました。しかし、何の誇張もなく事実、そう思っていたのです。相手に対して思うところは、書いておりませんが、正直に書けば確実に削除要請がくるくらいの激しいものであります。
これは何も、私のみの感情ではなく、親族一同のものでもあります。得に、小さな赤ん坊のころから孫娘を慈しみ成長を見守ってきた、両家の祖父母の悲嘆は見るのも辛いほどでした。
数か月前にこの世を去った娘の父方の祖父は、最後まで、期待の星の孫娘を襲った不運を憐れむとともに、この子をこんな目に合わせても、謝罪一つしない当事者たちへの激しい怒りの念を残したままこの世を去りました。
また現在、胆管癌の末期で、この夏を越せないだろうと言われている母方の祖母(私の母)も、入院するまでは、毎日仏壇のご先祖様に、「どうぞ、私の命と引き換えても孫娘の病が早く癒えますように」と、手を合わせておりました。そして、私に会うたびに、「相手は謝ってくれたのか?何故人様の大事な子供の健康を台無しにしたのに治療費も出してくれないの?鬼のような人たちやね・・・」と呟いていたものです。
娘を目の中に入れてもいたくないほど甘やかしてきた”パパ”も、争いごとをしない温和すぎるほどの人間なのですが、言葉には出さずとも今回の娘への、あまりの仕打ちに腸(はらわた)が煮えくりかえっています。ずっと前に、外でこの件の話をした後、ただでさえ高い血圧が更に上限を超え眩暈で立っていられなくなり救急車を呼びそのまま入院ということがありましたので、いつも、私が前面に立ち、各方面との交渉に当たっています。
妹の岸和田育ちの旦那様も、「よく黙ってられるね‼ホント信じられませんよ!僕の娘がこんな目に合わされたら、学校と相手の所に行って、大騒ぎしてやりますよ。新聞沙汰になっても、娘の無念を世間にわかってもらえると思うから、そうでもしないと腹が立って普通に生活できないですよ」と、私たちの無為無策に呆れています。
「父親」なら誰もが持つ強い感情
参考までに、親族ではありませんが、昨年の真冬の寒い日に、娘の3度目のブラッドパッチ手術の直前、「今度こそ手術がうまくいくように」と、厄払いのお祓いのために私一人で神社に行ったときの事。お子様をお持ちの元ヤン?らしき神主さんの言葉です。
「職業柄、こんなこと言うとだめだとはわかるのですけどね、学校の先生は皆そんな奴らばかりですよ。それに相手の加害者、僕なら娘がこんな目に合わされて、謝罪も償いもなにもしないのなら、相手の子供を同じ目に合わせてやるかもしれませんね・・・」
この神主さん、中学校の先生には良い思い出がなかったようで、言葉は過激すぎで、勿論後半は特にNGですが、私達家族の苦しみを、「事故の当事者」の人たちよりも遥かに深く感じて心から同情して下さいました。それは、事務的な対応しかされず、廃人状態の娘の世話で心が麻痺状態になっていたところに更に追い打ちをかけられ、ボロボロだった私の心に熱く沁みました。
最後に私の心情ですが、ここしばらくは、他の事は考えず、娘の治療法を必死で探し求めていましたが、今回この問題を記事で再提起することで心の封印が解かれるや否や、傷口から激しい憤りが噴き出ています。が、今は「孤立無援」ではないので、辛うじて抑えられるレベルです。
このように、被害者親族は当然ながら、皆、悔しさと怒りが抑えられないのです。その子を愛し育ててきた肉親なら、このような気持ちを持って自然だと思います。特に、可愛いがっていた女の子をこんな境遇にされた「父親」の悲憤は共通のものがあり、母親よりも激しいものかもしれません。
私たちが、相手のことを思いやりすぎて、大人しい人間だと思われ、軽んじられてきたのは確かにそうなのかもしれません。もう少し強く出れば、周りの対応も違ったかもしれないと思います。お人よしすぎるのも考えものですね。
このように、
子供を潰された家族は全員が不幸な思いの中に生きることになるのです。
「いつかは、相手(複数)が、人として正しい意識に目ざめ、良心の呵責にかられて何か行動を起こしてくれるかもしれない」と思いながら待っていましたが、既に1年4カ月が経過しました。
次回、その「相手」について思うところを書きます。